第6の哨戒 1944年8月
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「ハーダー (SS-257)」の記事における「第6の哨戒 1944年8月」の解説
8月5日、ハーダーは6回目の哨戒でハッド (USS Haddo, SS-255) 、ヘイク (USS Hake, SS-256) とウルフパックを構成し南シナ海方面に向かった。3隻の艦長のうちディーレイ艦長が最先任だったので、彼がウルフパックの指揮を執った。8月21日未明、ハーダーはハッドとミンドロ島沖で会合し、レイトン (USS Raton, SS-270) 、レイ (USS Ray, SS-271) 、ギターロ (USS Guitarro, SS-363) からなる別のウルフパックと合流したことを報告。このとき、ミンドロ島パルアン湾にはミ12船団が停泊しており、湾の外でウルフパックが待ち構えている状況だった。ハーダーは攻撃区域を次のように割り振った。すなわち、自身は西方、ハッドは南西方、レイとギターロは北西方に待機させた。ミ12船団は8月21日朝に出港したが、ハーダーのいた方角に向かわなかったものの大きな損害を蒙った。 翌8月22日4時ごろ、ハーダーとハッドは北緯14度25分 東経120度00分 / 北緯14.417度 東経120.000度 / 14.417; 120.000のバターン半島マリベレス(英語版)の西方50キロ地点、ヒ71船団から分離して対潜掃討を行っていた海防艦日振と松輪、佐渡をレーダーで発見した。海防艦はルソン島寄りから松輪、日振が平行し、佐渡はその後ろを航行し三角形の陣形を成していた。2隻は機会をうかがいつつ追尾したが、ハッドからはやや攻撃しにくい態勢だったらしく、ハッド艦長チェスター・W・ニミッツ・ジュニア少佐(アナポリス1936年組)は、攻撃すべきかどうか判断しかねていたが、ディーレイ艦長は「(攻撃は)いけそうだ。目標は小さくない」とニミッツ艦長にはっぱをかけた。ハーダーが日振と松輪を目標に魚雷を発射し、ハッドも佐渡を目標に魚雷を3本発射。佐渡はハッドからの魚雷1本が中央部に命中して航行不能に陥り、佐渡の左右前方にいた松輪と日振にも火柱があがる。松輪の船体は前部が沈んで後部だけ浮いており、日振も後部だけ浮いて、双方とも航行不能となった。ハッドの二度目の攻撃は成功せず、三度目の攻撃で佐渡と半身の日振に向けて魚雷を3本発射し、佐渡にふたたび魚雷を命中させて、ついに佐渡を撃沈した。ハーダーも二度目の攻撃で松輪を、三度目の攻撃でハッドが仕留めそこなった日振を撃沈した。こうして海防艦群を全滅させたわけだが、当初は輸送船が混じっていると判断され、ハーダーは「駆逐艦」と「4,000トン級輸送船」を撃沈したことになっていた。夜に入ってヘイクが合流してきた。 8月23日、ハーダーとハッドはルソン島沿岸を南下してきたタマ24A船団を発見した。タマ24A船団は2隻のタンカー、第二八紘丸(日本油槽船、10,022トン)と二洋丸(浅野物産、10,022トン)、駆逐艦朝風および夕凪で構成されていたが、タンカーのうち第二八紘丸は、8月22日にスペードフィッシュ (USS Spadefish, SS-411) の雷撃で座礁し、夕凪がこれに付き添ったため、残ったのは朝風と二洋丸のみであった。ハッドが攻撃を行って朝風を撃破し、行動不能となった朝風は通りかかった機帆船の曳航でダソル(英語版)湾に座礁し、夜になって沈没した。この攻撃で魚雷を使い果たしたハッドが、魚雷補給のためウルフパックを離れることとなった。8月23日夜、ハッドはハーダーと会合してウルフパックから分離し、ミオス・ウンディ島に向かった。ハーダーはヘイクとともに任務を続行した。
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