第6の哨戒 1943年12月 - 1944年2月
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「ホエール (潜水艦)」の記事における「第6の哨戒 1943年12月 - 1944年2月」の解説
12月21日、ホエールは6回目の哨戒でシーウルフ (USS Seawolf, SS-197) とともに小笠原諸島方面に向かった。1944年1月14日、シーウルフから輸送船団を発見した旨報告があり、シーウルフはそのまま輸送船団を攻撃し、「1隻撃沈、なおも追跡中」と報告があった。ホエールも1月16日朝になって、レーダーでその輸送船団を探知。夕方に入って潜航し、魚雷を3本を発射。魚雷は陸軍輸送船丁抹(でんまーく)丸(白洋汽船、5,869トン)にすべて命中し、丁抹丸は北緯23度15分 東経135度14分 / 北緯23.250度 東経135.233度 / 23.250; 135.233の硫黄島西南方500キロの地点で沈没した。シーウルフは「あと1隻残っている」と報告し、自身は魚雷を使い果たしていたので、浮上砲戦でこの輸送船を片付けようとしたが果たせず、代わってホエールが片付けることとなった。この残った1隻である特設運送船たるしま丸(浜根汽船、4,865トン)は特殊潜航艇を曳航していたが、この時までにシーウルフに撃たれた損傷がひどくなっていた。1月17日朝、北緯23度08分 東経135度09分 / 北緯23.133度 東経135.150度 / 23.133; 135.150の沖ノ鳥島沖でホエールはたるしま丸に追いつき、二度にわたって魚雷を計7本発射して3本を命中させてたるしま丸を撃沈し、ホエールはその様子を撮影した。その後1月23日までこの海域で哨戒を続け、1月26日にこの海域を去った。この最中に右舷側のスクリューを損傷した。2月3日、ホエールは44日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投。艦長がジェームズ・B・グラディ少佐(アナポリス1933年組)に代わった。
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