空母任務群司令官・1944
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「アルフレッド・E・モントゴメリー」の記事における「空母任務群司令官・1944」の解説
1944年に入って早々、パウナルは戦いぶりがニミッツや合衆国艦隊司令長官兼海軍作戦部長アーネスト・キング大将(アナポリス1901年組)らに不当に評価されず解任され、後任にはミッチャーが就任して部隊名も第58任務部隊となった。モントゴメリーは第58.2任務群を指揮することとなり、はじめの3か月は1944年1月のクェゼリンの戦いの支援および2月17日のトラック島空襲、2月下旬のマリアナ諸島空襲および3月30日から31日にかけてのパラオ大空襲に参加。このうちトラック島空襲では、指揮下の空母「イントレピッド」(USS Intrepid, CV-11)が日本軍の反撃で魚雷が命中し損傷するという不覚をとった。続く3か月は4月のホーランジアの戦いの支援、5月の南鳥島およびウェーク島への攻撃を経て、6月のサイパンの戦いとマリアナ沖海戦を迎える。6月19日のマリアナ沖海戦では大きな被害は受けなかったとはいえ、至近弾で「バンカー・ヒル」(USS Bunker Hill, CV-9)と「ワスプ」(USS Wasp, CV-18)が損傷した。サイパン島巡る戦いを含むここまでの功績が評価され、モントゴメリーに海軍十字章が授与された。 合衆国大統領は、空母任務群の戦術指揮官として突発的な英雄的戦闘を繰り広げた少将アルフレッド・ユージーン・モントゴメリーに対して海軍十字章を授与する。1944年2月21日のサイパン島への攻撃で彼の任務群は敵の爆撃と雷撃を巧みにかわし、対空砲火と戦闘機の迎撃により17機を撃墜した。また、敵の輸送船や航空機、海岸の施設を攻撃して貴重な写真を撮影することに成功し、味方部隊を無傷に保った。彼の卓越したリーダーシップと優れた戦術的能力、義務遂行のための勇敢な献身ぶりは重要任務の成功に大きく貢献し、これはアメリカ海軍の偉大な戦功を反映するものである。 — また、二度目の海軍殊勲章も授与された。 少将の率いる空母任務群は、1944年3月から6月にかけてパラオ、ウェーク島、南鳥島およびホーランジアへの航空攻撃を行い、敵の物資と沿岸施設に大きな損害を与えた。特にホーランジアでは橋頭堡の確立に取り組んでいた水陸両用部隊に非常に貴重な支援を行い、橋頭堡の確保後も味方部隊の進撃を支援し続けた。1944年6月のマリアナでの戦いでは日本の航空戦力の徹底的な破壊に参加し、重要な敵艦隊へ大なる打撃を与えた。 — サイパンの戦い後の6月下旬から8月にかけて、ミッチャーの第58任務部隊はグアムの戦い支援とスカベンジャー作戦を含む小笠原諸島攻撃を行う。ところで、サイパンの戦いを通じて第58.4任務群を率いるW・K・ハリル少将は、消化不良の戦いに終始したためミッチャーの不興を買い更迭された。モントゴメリーは7月に第58.2任務群の指揮をラルフ・E・デヴィソン少将と交代し、ハリルの後任として第58.4任務群司令官に転じた。スカベンジャー作戦においてモントゴメリーの第58.4任務群は、第58.1任務群を率いた「ジョッコー」ジョゼフ・J・クラーク少将(アナポリス1918年組)とともに小笠原諸島の日本軍拠点に対して反復攻撃を実施した。8月下旬、スプルーアンスはハルゼーの第3艦隊と交代することとなったが、ミッチャーのポジションについては後任に内定していたマケインのの技量が十分ではなかったため、マケインに第38.1任務群を与えて「研修期間」とし、「研修」が終わるまで引き続き部隊の指揮を執ることとなった。第38任務部隊は8月末から10月下旬にかけて、ミッチャーのもとでパラオおよびフィリピン攻撃、レイテ島の戦い支援とレイテ沖海戦を戦った。部隊は一息ついた10月30日にウルシー環礁に帰投し、ミッチャーは休養に入ってマケインがその職を継承し、マケインが率いていた第38.1任務群はモントゴメリーに委ねられた。第38.1任務群司令官となったモントゴメリーは引き続きフィリピン攻撃に従事し、12月17日から18日にかけて遭遇したコブラ台風では、台風に遭遇した任務群のうちでは最も南に位置していたものの、「カウペンス」(USS Cowpens, CVL-25)と「モンテレー」(USS Monterey, CVL-26)が損傷する被害を受けた。コブラ台風で散々な被害を受けた第38任務部隊は12月下旬にウルシーに帰投。ここで司令官の交代が行われ、モントゴメリーは第38.1任務群の指揮をラドフォードに譲って部隊から去った。フィリピンをめぐる一連の戦いでの働きぶりも評価され、モントゴメリーに三度目の海軍殊勲章が授与された。 少将の率いる第38.1任務群は、1944年10月30日から12月29日にかけてフィリピン諸島地域に点在する日本軍に対して攻撃を行った。彼の迅速な行動はレイテ島に展開する味方部隊を助け、マニラを含むルソン島各地域に散らばる日本の航空機と輸送船、陸上施設に対して濃厚な攻撃を繰り返し、重大かつ致命的な打撃を与えた。彼は空中戦闘を含めて卓越したリーダーシップと技量をいかんなく発揮し、戦略面で重要な時期に最大限の努力を払って味方部隊に良い影響を与え、この戦争における重要局面の行く末を良い方向に持っていくことに影響を与えた。 —
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