種子の確保が容易ではないことから、生産量が激減し戦後途絶えたという通説について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 07:15 UTC 版)
「団十郎朝顔」の記事における「種子の確保が容易ではないことから、生産量が激減し戦後途絶えたという通説について」の解説
これは東京都農林総合研究センター『農総研だより第17号』の「かつて、栽培が盛んであった『団十郎』は、種子の確保が難しく生産量が激減していました。そのため、“幻の朝顔”とも言われ、類似品種が『団十郎』として販売されていることもありました。」という記述が元である。これは黄蝉葉「団十郎」の事を指しているが、「かつて」というのがいつの時代か、どこで生産されていたものが激減したのかこの記述からは読み取れない。東京都農林総合研究センターの田旗裕也は『趣味の園芸』誌上で「昭和の入谷朝顔まつりでは、茶色花のことを一般に‘団十郎’と称しましたが」と述べている事から、「かつて」とは戦後の入谷朝顔市が始まった昭和23年(1948年)以前のことを指すという事が分かる。#歴史の項目で述べたように、戦前入谷の朝顔が全盛であったのは明治時代であり、そこで一世を風靡した団十郎朝顔は黄蝉葉種の「団十郎」ではない。明治時代の団十郎朝顔は大正以降に廃れてしまったが、これは種子の確保が難しかったからではなく、九代目市川團十郎の死と入谷の朝顔の衰退によるものである。黄蝉葉種が生まれ愛好家の人気を得ていた大正末期から昭和戦前期に栽培が盛んであったと解釈も出来るが、それを裏付ける証拠は今のところ無い。 「種子の確保が難しく生産量が激減した」、「幻の朝顔」と呼ばれたとの記述がある文献は『農総研だより第17号』以外に無く、それ以前の文献では「茶色中最優色の特異な存在」「古くから有名な品種」という表現があるが、「生産量が激減した」「戦後途絶えた」「幻の朝顔」などという表現は見られない。「種子付きもよい」とされ、「種子の確保が難しい」という記述もない。 黄蝉葉「団十郎」は「夜間の温度が25℃を超える熱帯夜が続くとタネがつきにくく、タネの確保が難しい」との主張がある。アサガオは一般的に盛夏(7月下旬から8月下旬)に咲いた花は高温のため結実しにくく、盛夏の時期より早く咲くか、もしくは秋以降に咲いた花がよく結実する。また、大輪朝顔はすべて洲浜遺伝子を持つが、洲浜は一般的に稔性が低い(結実性が低い)。一般的なアサガオの性質として盛夏には種子が付きにくく、大輪朝顔はすべて稔性が低い。黄蝉葉「団十郎」が他のアサガオとは違う特別な性質を持っているわけではない。 これまで述べてきたように黄蝉葉「団十郎」は朝顔愛好家用の品種であり、戦前から戦後にかけて商業的に栽培されたと記録している文献は確認できない。広く一般に販売されるのは東京都農林総合研究センターが黄蝉葉「団十郎」を正統として種を供給し始めた2010年代以降のことである。また「戦後途絶えた」とするのも誤りである。途絶えてしまったのなら黄蝉葉「団十郎」は戦後作られたものとなるはずであり、戦前から作られてきたという主張と矛盾する。 以上の「二代目市川團十郎が名の由来」、「江戸時代から団十郎が栽培されてきた」、「種子の確保が容易ではないことから、生産量が激減し戦後途絶えた」という通説の作られた過程をまとめると以下のようになる(太字は引用時に付け加えられた要素)。 中村 1961 濃栗皮茶筒白。花王系の変化、戦前吉田柳吉氏選出、伊藤氏が保存。現存茶色中最優色の特異な存在であるがやや小輪。三四年半日会で芝原氏の優勝花。 渡辺 1996 当時、入谷で名の知られた「団十郎」(成田屋ともいう)柿色丸咲きの花は、名優市川団十郎の名にちなんだ花名である。『暫』の狂言に柿色の素袍を用いたが、団十郎の人気に乗じ、この色が流行したといわれている。(中略)花色は、茶・焦茶・柿茶・栗皮茶など茶系統なら、青葉でも黄葉でもよく、無地でも覆輪でも『団十郎』と呼んでいた。 米田 2006 キセ 濃茶無地 日輪抜け 戦前、吉田柳吉氏が『花王』から分離選出したものを伊藤穣士郎が保存維持して伝えたといわれている。江戸時代に二代目市川団十郎が『暫(しばらく)』の衣裳に柿色の素襖(すおう)を用いて一躍人気を博し、この色が団十郎茶として流行した。朝顔でも古くから茶色無地や茶覆輪花を『団十郎』と命名してきたらしい。 東京都農林総合研究センター 2011 かつて、栽培が盛んであった『団十郎』は、種子の確保が難しく生産量が激減していました。そのため、“幻の朝顔”とも言われ、類似品種が『団十郎』として販売されていることもありました。(中略)葉色が淡く花は大輪で花色がえび茶色といった珍しい花色が特徴です。 芦澤 2012 黄蝉葉 濃茶無地 日輪抜け。戦前、吉田柳吉が『花王』から分離したものから選出したものを伊藤穣士郎が保存維持して伝えたといわれている。朝顔の「団十郎」の名は古く、江戸時代から茶色無地や茶覆輪花を『団十郎』と命名した事もあったらしい。 あきる野市 2012 「団十郎」は海老茶色の花と黄緑色の葉が特徴です。「団十郎」の名は2代目市川團十郎(成田屋)が演目「暫(しばらく)」で用いた装束の色(海老茶色)にちなんでつけられたもので、江戸時代には「団十郎茶」色として一世を風靡しました。江戸の昔から栽培が盛んに行われていましたが、種子の確保が難しく幻の朝顔と言われるようになりました 国分寺市 2013 「団十郎」とは、えび茶色の大きな花と黄緑色の葉が特徴の朝顔です。「団十郎」の名は、二代目市川團十郎(屋号成田屋)が演目「暫」で用いた装束の色(えび茶色)にちなんでつけられたもので、江戸時代には「団十郎茶」色として一世を風靡しました。 ところが、種子の確保が難しく生産量が激減し、戦後途絶えてしまい「幻の朝顔」と言われていました。 (中村 1961)は黄蝉葉の団十郎という特定の1品種に関する記述、(渡辺 1996)は「団十郎」と呼ばれた朝顔全般に関する記述である。これが混同されて引用され、また引用の度に根拠不明の記述が付け加えられてきた。「江戸時代に二代目市川団十郎が『暫』の衣裳に柿色の素襖を用いて一躍人気を博し、この色が団十郎茶として流行した。」との記述が江戸時代から「団十郎」と呼ばれた朝顔が存在したと誤解され、またさらに2010年代以降の解説では(中村 1961)の「花王系の変化、戦前吉田柳吉氏選出、伊藤氏が保存。」という情報が欠落し、黄蝉葉「団十郎」が江戸時代からの品種という誤解に発展していった。 これまで述べてきたように江戸時代の朝顔図譜に「団十郎」の名は無いし、蝉葉の朝顔は明治時代末期以降に作られた物である。また黄蝉葉「団十郎」の親品種である「花王」が広まるのは大正以降であるため、それ以前に存在することはあり得ない。
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