私的な手紙、模範文例、書簡文学
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「古代エジプト文学」の記事における「私的な手紙、模範文例、書簡文学」の解説
古代エジプトの手紙の模範文例と書簡文学とは同じ1つの文学ジャンルに分類される。長距離の手紙には泥の封印をしたパピルスの巻物が使われた一方、近所に送る内密のものでない短い手紙にはオストラコンがしばしば用いられた。王家や役人の通信のための、もともとはヒエラティックで書かれていた手紙は、時折ヒエログリフで石に刻まれるという高貴な扱いを受けることがあった。生徒たちにより木の筆記板に書かれたさまざまなテクストの中には手紙の模範文例も含まれる。教師や家族によるものを含む私的な手紙が、筆写するための模範文例として用いられることがあった。しかしながら、こうした文例が教育的な写本に取り上げられることはほとんどなく、代わりに数々の写本に見出される架空の手紙が採用されていた。こうした手紙の模範文例で一般的であった定型句は「役人Aが書記官Bに述べる」というものであった。 知られている最も古いパピルスの手紙は第5王朝のジェドカラー・イセシの治世(紀元前2414-2375年)のものとされる葬祭殿で発見された。第6王朝時代のものとされるより多くの手紙があり、この時代に書簡文学というサブジャンルが始まった。第11王朝時代のものとされる教育的テクスト『ケミトの書』には、書簡用の挨拶文リスト、手紙形式の結びを持つ物語、追悼の伝記に適した用語集が収められている。中王国時代初期の他の手紙でも『ケミトの書』に類似した書簡の定型文が用いられていたことが発見されている。第11王朝時代のものとされる、豪農によって書かれたヘカナクト・パピリ(英語版)には古代エジプトで書かれた知られている限り最も長い私的な手紙のいくつかが収められている。 中王国時代後期には書簡の定型文のより一層の標準化が見られ、アメンエムハト3世の治世下(紀元前1860-1814年)にヌビアのセムナ要塞(英語版)に送られた公式文書から取られた一連の模範文例はその例である。書簡文学は新王国の3つの王朝全てを通じて書かれていた。死者に宛てた手紙は古王国の時代から書かれていたが、書簡形式での神への嘆願の手紙が書かれるようになったのはラムセス時代からで、これはペルシア支配下のエジプト(英語版)およびプトレマイオス朝時代には非常にポピュラーとなった 第19王朝時代に書かれた第1アナスタシ・パピルス(英語版)の「風刺的手紙」は、生徒たちにより数多くのオストラコンに筆写された教育・教訓的テクストであった。ウェンテはこの書簡作品の内容が「〔……〕今世と来世の願いを添えた適切な挨拶、修辞的な文章構成、知恵文学における格言の解釈、工学的問題及び軍隊への補給の計算への数学の応用、西アジアの地理」に亘り、非常に汎用性なものであったと述べている。さらにウェンテはまたこの書簡を、場所・職業・事物の単調で機械的な学習をせぬように勧める「論争的な論文」とも呼んでいる。例えば、西アジアの地名だけを知るのではなく、その地誌やルートの重要な詳細も知らねばならないとしている。また教育効果を高めるため、皮肉や風刺が用いられている。 第20王朝はしばしば「ラムセス朝」と称されるが、紀元前11世紀の前半に父ジェフウティメスと息子プウテハアメンとのあいだで交わされた往復書簡となったパピルス約40通が遺存している。この親子の書簡は「後期ラムセス朝書簡」と呼ばれており、家族を思う気持ちや生活に根づいた神々への信仰が綴られていることで知られている。
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