神国意識と神本仏迹説
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他方、神社側でも仏教などの外来宗教の影響も受けつつ、神道を教義化・内面化していく動きが活発になり、本地垂迹説に対して神を優位とする神本仏迹説も生じるようになる。律令制の崩壊に伴い、存在基盤が動揺し始めた神道勢力の中に強い危機感が生じ、彼らが神道祭祀について神秘的な権威づけを図って記述を行いはじめたことや、仏教勢力が積極的に神祇の世界に近づき仏教の論理によって神道の再解釈を試みたことに対して、神道側から仏教に対抗して神道の立場を主張しようとしたことが、その背景にある。また、元寇勝利後の神国思想の高まりや、全国への神宮御厨の増加による伊勢神宮の権威の高まりも、体系的神道論形成の背景となった。 その嚆矢は、鎌倉時代中期に成立した伊勢神道である。伊勢神道は、伊勢神宮の外宮祠官である度会氏が中心となって形成した神道説であり、「神道五部書」を基本教典とする。五部書の中でも『倭姫命世記』『造伊勢二所太神宮宝基本記』が比較的早く成立した書物であり、両部神道における内外宮の金胎両部説を援用しながら、内宮と外宮を同格とし、ひいては外宮を優越させることを図った。これらの書物の中で外宮の祭神である豊受大神を、天照大御神に先行する根元神として天御中主神に比定、さらに内宮を火徳、外宮を水徳としたが、これにより五行説における「水克火」に基づいて外宮を優先させようとした。また、邇邇芸命の母である萬幡豊秋津師比売命を豊受大神の孫神と位置づけ、豊受大神を皇孫の系譜に組み込んだ。また祭神論の他、皇統の無窮と三種の神器の尊厳、神宮の尊貴性を説いて神国思想を強調し、神道における二大徳目として正直と清浄を掲げ、これを中心とした倫理観と道徳感を展開し、祭祀の厳修と斎戒、解除(はらえ)を重視した。 伊勢神道がさらに発展するきっかけとなったのが、1296年(永仁4年)に豊受大神宮に「皇」の字を付け加えたことを巡って生じた「皇字論争」であり、ここで外宮の中心となった度会行忠は、外宮の正統性の根拠として上述の書物を取り上げた上で、神道五部書のうちの『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神御鎮座伝記』『豊受皇太神御鎮座本記』の三書を撰述し、伊勢神道の典籍を世に広げることとなった。 度会行忠の跡を継いで伊勢神道を確立したのは度会家行であり、彼は『類聚神祇本源』を著して宋学、老荘、仏教など多様な書物を引用しつつ伊勢神道を体系化するとともに、「機前論」という独自の神道教義を説いた。それは、世界が生成される以前の混沌状態を「機前」とし、かつそれが我が心の本源であり、そこに神の本質があるとした上で、その機前をいかす実践として清浄を維持することを説いたものである。 さらに後には度会常昌が出て、度会氏は外宮鎮座以前は内宮に奉仕してきたと主張して内宮と外宮の同列化の根拠とし、さらに外宮を水神と見る立場から内宮と外宮の関係を月日に比定し、日月が並んで宇内を照らすように、伊勢両宮が双座すると主張した。 南北朝時代に入ると、伊勢神道の影響を受けた北畠親房が『神皇正統記』や『元元集』を著し、日本の皇統が神代と連続し、一度も交代しなかったことから神国としての日本の優位論を説くとともに、天皇には血統のみならず儒教的な徳目を要求し、「諸教を捨てず」と説いた。同時代、天台僧の慈遍も伊勢神道から影響を受けて『旧事本紀玄義』を著し、天皇の君主像を提示し、神道における政治論を確立した。また、公家の一条兼良も『日本書紀纂疏』を著して日本書紀神代巻を哲学的に解釈して神道思想を形成した。忌部正通は『神代巻口訣』を著して日本書紀神代巻の注釈を通じて神道神学を叙述した。
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