社会改革と再開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/17 03:11 UTC 版)
「ファイブ・ポインツ (マンハッタン)」の記事における「社会改革と再開発」の解説
「ファイブ・ポインツ」として知られるかの地は、長きに渡って悪名を高めており(中略)あらゆる種類の悪徳が発生して育まれる新生児室であるかの如くであります。この上なく無頼で、自暴自棄となった類の階級がはびこっております。(中略) (彼らは)それぞれの気晴らしをもって愉しむこと、悪徳に親しむことで廉直の道から誘い出されかねない(中略)という危惧の念を奪われております。そしてそのように一歩また一歩と進み、遂にはかの汚濁の溜まり、回復不能の悪名の渦へと飲み込まれます。(中略) 結論として、貴委員会におかれましてはこの悪名の温床、現代のソドムが、貴市のちょうど中枢に、そして事業や尊敬すべき住民の中心地のすぐ近隣に位置していることに御注目願います。(中略) この核心を除去し――目下の住民をさらに広く地表に分散させ――貴市の当の部分を、活動的で尊敬すべき人々の計画のためにうち開かれれば、皆さんは善良なる人々が感謝を呈するであろう大事を果たされることになります。 大半はキリスト教の徳目を掲げた各種の慈善団体や個人が、ファイブ・ポインツの貧民の苦しみを改善しようと様々に試みた。キューバ生まれの司祭フェリックス・ヴァレラ(英語版)神父は、アイルランド系カトリック教徒の貧困層のために尽力するべく、1827年にファイブ・ポインツにローマ・カトリック地域教会――移民教会――を設立した。後に変容教会(英語版)(ローマ・カトリック)と改名し、地域教会は1853年に、住宅地区へと移るシオン・プロテスタント監督教会(1801年頃に設立)の信徒連から建物を買い取って、モット通り(英語版)とクロス通りの角へ移った。 大規模な取り壊しでファイブ・ポインツのスラムを撤去する最初の要請は、1829年に一帯のすぐ近傍で事業を維持していた商人連からなされた。スラム撤去の運動(英語版)は(特に、1890年刊の『向こう半分の人々の暮らし(英語版)』の著者ジェイコブ・リースが推し進めた)、ファイブ・ポインツ一帯で最悪の地区の一つであったマルベリー・ベンド(英語版)をマルベリー・ストリートから部分的に除去することに成功した。当地は著名な景観建築家カルバート・ヴォークス(英語版)が設計した公園として再開発され、1897年の開所に際してマルベリー・ベンド・パークと名づけられた。現在ではコロンバス・パーク(英語版)として知られている。 「巨大な暗い洞穴、あらゆる都会の悪夢と言語に絶する恐怖が投影されうる土牢」と形容された、クロス通りのオールド・ブルワリー(英語版)を撤去するために、多大な努力がなされた。オールド・ブルワリーは元はコールタード醸造所であり、30年に満たない以前の1790年代には市の外郭にあった。後には拡大する市に囲まれて、ファイブ・ポインツ交差点のすぐ南のクロス通りに位置した。醸造所は1837年にテネメント(英語版)・下宿屋に改装された後、「オールド・ブルワリー」として知られるに至った。下階の高天井の部屋、そして上方の2つの階が、くたびれた4階建ての共同住宅に改装された。賃料は安価であり、多くが移民であった低所得の賃借人を多数惹きつけた。1850年に採られた唯一の人口調査記録は、35部屋に221名が住んでおり、平均して1部屋あたり6.3名となると報告した。ブルワリーの共同住宅に住む人々の総数について記録は相違しているものの、収容力を超えて満杯であったとの点ではいずれも一致している。 ファイブ・ポインツ全域で眼にされる貧困はオールド・ブルワリーでも現れており、「国内伝道団」(Home Mission)の女性たちが行動を起こした。当該メソジスト派慈善団体は、ファイブ・ポインツを浄化する決意であった。1853年10月、『ザ・クリスチャン・アドヴォケイト・アンド・ジャーナル(英語版)』誌は進行中の計画を伝えた。 1851年12月にメトロポリタン・ホール(英語版)で行われた会合で、この計画に関する公共の利益について説得力ある根拠が示され、すなわちオールド・ブルワリーを買い上げる決議を実行委員会が成立させた。他の請願が公にされて、相応しく対処された。かの名高い根城は購入され、数か月の間に完全に取り壊されて、既に相応しい伝道用の建物がその地所を占めている。 — ザ・クリスチャン・アドヴォケイト・アンド・ジャーナル、1853年10月 「ファイブ・ポインツ伝道団」の監督下で、「新伝道所」(New Mission House)がオールド・ブルワリーに取って代わった。そこが住居、衣服、食料、そして教育を慈善活動の一環として提供した。新しい建物は生活空間として、オールド・ブルワリーより23部屋多い58部屋を利用可能であった。
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