社会改良家として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 04:33 UTC 版)
「ジェイコブ・リース」の記事における「社会改良家として」の解説
リースの社会改革への誠意は滅多に疑われることはなかった。実際、「19世紀最後の10年間、リースはアメリカでもっとも影響力のある社会改良家だった」という評もある。またジェームス・B・レイン(James B. Lane)は当時のニューヨーク市慈善組織協会の中心人物、J. S. ロウエル(J. S. Lowell)との関連について、リースの社会事業実践の側面を研究しているが、そこにおいてリースは統計調査や理論的論議よりも、学校、病院、公園、セツルメントのような社会施設を好み、その効果を目に見ることができる具体的、直接的なサービスや施与に汲々としたかなり性急な行動家であったことを分析している。ただし一方で井垣は、彼が何よりも行動家であったことは認めながらも、著書の中では調査的志向に傾斜しており、自分の役割を実践家たちがそれを基礎として進む事実をデモンストレートするのみであると語っていることから、リースは社会事業実践に関心を持ち、自らも行動するが、あくまで専従者ではなく、自らをリポーターと自覚して実態の調査と事実の収集、報告に力を注いでいたことを指摘し、「しかし彼のデータは人びとを具体的な実践に向ける熱いデータであった」と評価している。 しかし、批評家は彼に他者の選択や人生にまで干渉する権利があるのかということを疑問視した。彼の聴衆は中流の改革派を含んでおり、批評家はリースには彼自身が描き出している人々の伝統的な生活様式への愛情が全くないと批判した。マーレン・ステンジ(Maren Stange)は、リースは「労働者や労働者階級の文化から離れ」主に中流階級の聴衆の不安や恐れに訴えかけているのだと論じている。またトム・スウィンティー(Tom Swienty)は「リースは仲間である移民の多くに非常にもどかしく感じており、彼らを早まって判断し、同化できなかった人々を非難した。そして軽蔑を表現することを憚らなかった」と述べている。さらにジェフェリー・ S・グロック(Jeffrey S. Gurock)はリースは当時ニューヨークに殺到していた東ヨーロッパ系のユダヤ人の求めや恐れには鈍感であったと述べている。 佐々木隆もリースの社会改革に対する認識や、社会改革者としてのリース自身の自己イメージが18・9世紀的であったことを指摘している。実際、フランクリン的な勤労倫理観に立っていたリースには20世紀的な失業の構造には考えが及ばず、「浮浪者の問題は怠惰の問題である」と考えていたために警察署内の浮浪者宿泊所の廃絶に力を入れていた。 加えてリバタリアンの経済学者、トーマス・ソーウェル(Thomas Sowell)によれば、リースの頃の移民は一般的に、家族のアメリカ移住を支えるために収入の半分以上を節約することができる計画的かつ短期的な手段としてなら、常についにはより快適な住まいに移り住もうという意思はあったものの、狭苦しく不快な環境で生活することは構わないと思っていたという。またソーウェルが言うには、多くのテネメントを貸す人々はリースのような改革派の善意による移住の取り組みに対して、物理的に抵抗した。なぜなら他の下宿はあまりに高価でテネメントで可能な高い割合での貯蓄の余裕がないからである。さらに、リースの個人的な経験は彼の生きていた時代にあっては例外というよりむしろ通常のことであり、多くの移民や低所得者のように彼も、徐々により高い収入を得られて、違う場所へと引っ越せるようになるまでの一時的な間のみテネメントに住んでいたのであるとソーウェルは述べている。
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