社会改良主義の標榜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/26 01:40 UTC 版)
「社会政策学会 (日本 1897年)」の記事における「社会改良主義の標榜」の解説
学会は、1898年7月、桑田・金井・戸水寛人の執筆による「社会政策学会趣意書」を発表した。「趣意書」は自由放任主義および社会主義への反対を表明するとともに、「現在の私有的経済組織を維持し其範囲内に於て箇人の活動と国家の権力に由つて階級の軋轢を防ぎ社会の調和を期す」とあるように明確に資本主義の枠内での社会改良主義の立場を標榜した。と同時にこの趣意書には、会員の片山潜らが結成(1898年)した社会主義研究会との違いを明確にするという意図も込められていた。 さらに、1901年には、社会民主党の結党=即日禁止という状況を背景に、「弁明書」(和田垣謙三・金井・桑田の連名による)を公にして社会主義と社会政策の違いを強調して再度社会主義を批判、社会主義勢力と同一視されることを拒否した(実際、8時間労働制、児童労働の禁止、労働組合公認など、社民党の綱領と学会の提言には多くの共通項目があった)。実際、名称に「社会」を冠したこの学会は当局から危険視されたこともあり、一時は会員が警視庁のブラックリストに掲載されていたとも言われる。この弁明書は一方で自由放任主義の立場から社会政策に反対する田口卯吉、他方で社会主義と社会政策が背馳しないことを主張する社会主義者・安部磯雄の批判を呼び起こした。 学会内部でも、1907年の第1回大会(後述)において、右派勢力を代表する添田寿一が「主従の情誼」に基づく社会政策を主張したのに対し、中間派に位置する福田徳三や左派の高野岩三郎から批判されるなど、思想的に幅広い層から結集したがゆえの対立が起こっている。ただし一部会員を除いて会の主流は、社会主義に反対していたとしても、下からの運動を通じた社会改善それ自体を否定していたわけではなく、労働組合による労働者の自主的な地位改善運動の必要は認める立場をとっていた。
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