石碑等からみる王朝史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/03 23:45 UTC 版)
セイバルは、古典期後期にはいってティカルのなんかの支援によって復興したと考えられる。セイバルについて記録が最初にあらわれるのは、ドス・ピラスの石碑15号に721年10月の日付を示す長期暦の日付とともに登場する。ドス・ピラス王イツァムナーフ・カウィールの時代にドス・ピラスの力の影響を受けていたと一部の研究者は考えているが、決して友好的な関係とはいえなかったようである。金星が「宵の明星」としてはじめて出現する735年12月3日にドス・ピラス王ウチャーン・キン・バラム(「支配者3」)は、セイバルに攻撃をしかけ、セイバル王イチャーク・バラム(「ジャガーの鉤爪」)をとらえ、ドス・ピラスとセイバルの主従、支配従属関係が確立した。ドス・ピラスのこの戦勝については、ドス・ピラス自身と双子都市のようにして築かれたアグアテカに武装したウチャーン・キン・バラムがイチャーク・バラムを踏みつけているレリーフが刻まれた石碑が建てられている。 741年6月23日にドス・ピラス王がカウィール・チャン・キニチに代わってもその従属関係は続き、745年と747年にカウィール・チャン・キニチの監督下でセイバルの臣下が儀礼をおこなったこと、746年には、カウィール・チャン・キニチの行った放物儀礼がセイバルとともにタマリンディートの石碑ないし石彫に刻まれている。 セイバル王イチャーク・バラムは臣下の礼をとることによってなんとか一命をとりとめ、祖先の王カン・モ・バラム(「高貴なコンゴウインコ・ジャガー」)を祀る廟を建設し、奉献した。この廟の奉献と同じ日に、カウィール・チャン・キニチの後見のもとに新王チョック・アハウ(「若い王」)が即位したことが石碑ないし石彫の銘文から知られる。イチャーク・バラムは、敗北してから12年後の金星が内合する日に、儀礼としての球戯が行われて生贄にされた。 しかし、ドス・ピラスの支配もカウィール・チャン・キニチがおそらくタマリンディートによる攻撃で761年に「退去」させられたことによって、セイバルへの支配権も失ったとおもわれる。このことによってパシオン川流域、ペテシュバトゥン盆地の諸都市の支配者たちは、おのおのがティカル王など優越的な王権をもつ大都市の支配者にしか許されなかった「ムタルの神聖王」という称号を名乗るようになった。ドス・ピラスの王家はアグアテカに移り、タン・テ・キニチが9.16.19.0.14.5イミシュ12ポプ(770年2月8日)に王位に就いた。 9.17.0.0.0.13アハウ18クムク(771年1月20日)というカトゥンの終了した日に、アハウ・ボットという人物がセイバルで即位した。アハウ・ボットは、「火の男の主人(火の男を捕虜とした者)」という称号でも知られる。アハウ・ボットの事績については、セイバルの石碑5,6,7に刻まれていて、石碑6号にアグアテカとの関係を刻んだ部分があるが風化、摩耗によって解読できないため、独立した王なのか従属的だったのかはわからない。セイバルの北東15kmに位置するチャパヤルにアハウ・ボットについて記述した銘文が確認されていることで周囲の都市になんらかの影響力を及ぼしたであろうことが推察される。 セイバルは、830年ごろから開始されるバヤル相の時期から勢いが強くなるが、このことを象徴する銘文が石碑11号にみられるアフ・ボロン・ハーブタル (Aj B'olon Haab' tal) もしくはワトゥル (Wat'ul Chatel)の「到着」という記事である。アフ・ボロン・ハーブタル(ワトゥル)は、ウカナル王と思われるチャン・エク・ホベトの後見のもとに即位し、セイバル王となった。セイバルの構築物A-3の周囲に10.1.0.0.0.(849年)のカトゥンの終了を祝う儀礼に5つの石碑が建てられ、ティカル王「宝石カウィール」がその儀礼に参加するためにセイバルを訪れたこと、セイバル石碑10号にカラクムルのチャン・ベトがカトゥンの終了を見たという記述があることから、当時のセイバルがペテン低地で最も力をもつ都市にまでなっていたことを想像させる。 さて、アフ・ボロン・ハーブタル(ワトゥル)の風貌は、髭を生やしたいかつい人物としてえがかれ、面長わし鼻にえがかれるマヤ人と比較して明らかに異質である。石碑19号には、風神エエカトルの仮面をかぶった人物がえがかれ、メキシコ風の「言葉の渦」と表現される吹き出し文様が刻まれている。889年の日付を刻んだ石碑13号にもこの「言葉の渦」は描かれ、銘文として刻まれた長期暦の最初の導入文字にもメキシコ風の四角い枠が付けられている。 このことについて研究者の間では、メキシコ湾岸のシカランゴを根拠地としたメキシコないしナワ系の影響を色濃く受けた武装した交易商人の集団であるプトゥン・マヤとかチョンタル・マヤと呼ばれる人々が入ってきたのではないかという議論が有力である。コウなどは、シカランゴがアステカ人に「オルメカ・シカランカ」の根拠地と知られていた場所で、ほぼ同時期のメキシコ中央高原の鮮やかな壁画で知られる遺跡カカシュトラにマヤ風の衣装を着て儀杖を持つ人物とセイバルの石碑に描かれた人物との図像的類似性を指摘する。また青山和夫は、グアテマラ南部のコツマルワパ文化の石碑との類似性からメキシコ東部からの文化的な影響や人々の移住などの動きがあったことを指摘している。 このような非マヤ的なメキシコ風の石碑の図像について、八杉佳穂は、「ペテン中央部まで広がり、ヒンバルやウカナルなどで認められる」(八杉1990p.100)と指摘しており、このことは、リンダ・シーリーらの主張するウカナル王の後見のもとにアフ・ボロン・ハーブタル(ワトゥル)のセイバル王に即位したという記述に調和し興味深い。 なお、シーリーとピーター・マシューズは、セイバルの「葦の地」から来た人物との立会いのもとに儀礼をおこなったという記述について、「葦の地」とはチチェン・イッツアのことであると主張するが、コウは、トゥーラと考えることもできるのではないかと疑問を呈するものの明確な結論は避けている。 セイバルには日付のわかっているもので、889年まで17基の石碑を建立し、日付のわからないものを含めるとさらに新しく石碑が建立され続けたと考えられているが、930年以降は放棄されていったと考えられる。
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