石碑の評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/05 03:03 UTC 版)
崔基鎬は、「1895年に日本が日清戦争に勝つと、李氏朝鮮は清国の属国としての桎梏をのがれて、独立国となることができた。国号が清国と対等な国として大韓帝国に改められ、第26代の高宗王が、中華圏における中国皇帝の臣下を意味する国王の称号を廃して、はじめて皇帝を称した。大清皇帝功徳碑は、1895年に、あまりにも恥辱であるとして、川の中に投げ込まれた。もっとも、この碑は日韓併合後に、川底から掘り出されて、史碑として同じ場所に建立された。1897年には、ソウルの西大門の近くにあった迎恩門が破壊されて、その場所に独立を記念する西洋式の独立門が建立された。迎恩門は、李朝を通じて、明、あるいは清の皇帝の勅使がソウルを訪れたときに、朝鮮国王がそこまで迎え出て、勅使に対して九回叩頭する礼を行なう場所だった。今日、独立門は韓国の史蹟32号に指定されている。しかし、今日の韓国民のうち、いったい何人が、そこに韓民族にとって、はかりしれない災禍をもたらした象徴である迎恩門が建っていたことを、知っているだろうか。日本にはその歴史を通じて、大清皇帝功徳碑も迎恩門もなかった。私たちから見ると、何と羨ましいことだろうか。かつて李氏朝鮮は中国への卑屈な服従関係と、不正腐敗を覆い隠す名分として、慕華思想という言葉を用いた。誇りを失った李氏朝鮮の末路は、亡国しかなかった」と評した。 宇山卓栄は、「朝鮮半島は一時期を除き、約2000年間、中国の属国でした。朝鮮は属国として、中国に多額の金銭・物品を貢がなければなりませんでした。しかし、朝鮮は土地の瘦せた貧弱な国であったので、充分な貢ぎ物を用意することができず、代わりに美女たちを送りました。彼女たちは『貢女』と呼ばれ、多くが性奴隷にされました。第16代朝鮮王の仁祖は中国の清王朝皇帝に土下座して、平伏しました。仁祖は中国皇帝を讃え、自らを卑下する内容の文を石碑に刻まされました。この『恥辱碑』と呼ばれる石碑(『大清皇帝功徳碑』)が今もソウルの江南地区に残されています。中国に踏みつけられた朝鮮の悲惨な歴史は消えることはありません。中国への隷属は朝鮮人の心を蝕み、我々、日本人には考えられないような『精神の卑屈』を招きました。朝鮮の支配者層は中国に媚びへつらい、中国のために国を売るようなことを平気で行っていました。彼らは中国と癒着することで、様々な利権を保証されたのです。一方、支配者層は民衆を奴隷化して酷使し、中国へ貢ぐための物品を徴収しました。民衆の生活レベルは極端に貧しく、悲惨でした。民衆を搾取することが朝鮮の政治の中心課題になっていました。支配者層にも民衆にも、公益や公共の意識はありませんでした。支配者層が真面目に政治を行ったとしても、また、民衆が真面目に働いたとしても、結局、中国が奪っていくので、無意味でした」と評している。
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