直通運転の背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 14:16 UTC 版)
「名鉄キハ8000系気動車」の記事における「直通運転の背景」の解説
「名鉄特急#高山本線直通列車」も参照 名古屋鉄道は名岐鉄道時代の1932年(昭和7年)10月から週末に、自社犬山線と国鉄(当時の運営母体は鉄道省)高山本線経由で名古屋市内の柳橋駅(名古屋駅近くの名鉄ターミナル駅。1941年〈昭和16年〉廃止)から下呂駅への直通列車を運行していた。当時は畳敷化などの改装を施した名鉄電車(デセホ750形)を高山本線内で国鉄蒸気機関車に牽引させることで、直通運転を実現していた。両線が近接する鵜沼駅の貨物用連絡線を利用して直通させている。 この背景には、名古屋駅 - 鵜沼駅間では岐阜駅経由の東海道本線・高山本線ルートより犬山線を経由する方が短距離という事情と、名鉄のターミナルであった柳橋駅は当時の名古屋市の中心街に位置していたこともあって、旅客誘致策の一環として名鉄が鉄道省に申し入れた。鉄道省側は当初、一私鉄の車両を省線で運行するには保安上問題があるとして拒んでいたが、昭和天皇が犬山行幸の折に名鉄を利用したことを挙げて説得し、また、当時は鉄道省も観光客誘致に力を入れていたこともあって、名鉄車両の省線乗入れを承諾したものである。 名鉄ではこの乗入れ列車のために、当時の最新鋭車であるデセホ750形2両の半室を畳敷に改造した「お座敷電車」(翌年からは便所も取付たデホ250形)を用意し、「下呂行き特急」として大々的に宣伝した。下呂への往路は土曜日の午後と日曜日の朝に柳橋を出発し、復路は日曜日の夕方に下呂を出発するダイヤが設定され、週末の1泊・休日の日帰り旅行に適したものとなった。 その後1940年(昭和15年)10月のダイヤ改正からは、国鉄の木造客車を名鉄線内で電車牽引する逆乗入れの形態とし、区間を押切町(現在の地下鉄鶴舞線浅間町駅の北西にあった。柳橋駅同様1941年(昭和16年)廃止) - 富山間に拡大した(運用上、この方が鉄道省の取扱が楽になる)。直通運転は太平洋戦争中に戦況の激化に伴って休止されたが、時期は不明(1944年〈昭和19年〉改正時の時刻表には乗入れ列車の記述あり)となっている。 戦後、1960年代の国内観光ブームを背景にこの直通運転再開が目論まれた。名鉄側は以前から運転再開を希望していたが、実現の契機となったのは、名鉄築港線(側線群)の大部分を1965年(昭和40年)に開業した第三セクター鉄道の名古屋臨海鉄道に譲渡した際であった。名古屋臨海鉄道には国鉄も資本参加していたため、高山本線への直通運転再開は築港線と貨物輸送の補償条件として実現した。 すでに高山本線では1958年(昭和33年)以降、気動車による準急列車が運行されて好成績を収めており、名鉄直通列車についても気動車が用いられることになった。この列車もまた準急列車としての設定が計画された。 名古屋鉄道(と同社に合併されたいくつかの鉄道会社)には戦前こそ支線用のガソリンカーを保有していたが、それらは戦中戦後に全て電車の付随車に改造されて気動車を保有していなかった。だが、狭小な建築限界の上に急カーブがある名鉄線には幅広な国鉄形気動車が直通できないこと、また国鉄車両よりも水準の高い(パノラマカーと同等の)サービスが目論まれたこともあり、新たに専用の気動車を開発することになった。
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