環境史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 04:53 UTC 版)
「滋賀県#歴史」および「淀川#淀川開発史」も参照 本節では、環境史(英語版)を中心に石器時代以降の琵琶湖の歴史について概説する。交通・治水・利水・漁撈・環境保全といった各分野における詳細については後述する。 琵琶湖には90を超える湖底遺跡があり、縄文時代後期から近代初期にかけてを存続の終期とするそれらからは、琵琶湖周辺の生活や文化の歩みを窺い知ることができる。一方、近世以前の琵琶湖についての史料は限定的であり、湖岸域の土地利用は変化しやすく支配関係の把握が難しいといった問題もあるため、琵琶湖の環境史研究は発展途上である。後述するように琵琶湖では古くから湖上交通や漁撈がおこなわれおり、その拠点として多くの集落が発達しており、津・浦・浜などの文字を含む地名からは、その成立における琵琶湖との密接な結び付きを伺うことができる。 琵琶湖が現在の位置に定まったのは、旧石器時代末期ごろであり、琵琶湖周辺ではこのころの石器が発見されているが、詳細は不明である。縄文早期後半の石山貝塚などの遺跡からは淡水産の魚介類の貝殻や骨が発見されており、一部山間部にも居住の痕跡はあるが、湖畔での居住を好んだ傾向が窺える。また後述するように、縄文後期には丸木舟が使用されていたことも判明している。弥生前期から中期にかけての湖底遺跡からは、土器・木器・石器・炭化米や環濠などが発見されており、灌漑・排水が比較的容易であり漁撈の便もよい琵琶湖畔において、初期の稲作が多く営まれていたと推測できる。 後述するように、大津京遷都がおこなわれた飛鳥時代以降、多くの歌人が琵琶湖を歌に詠み込んでおり、湖上の往来が盛んになされていたことも伺える。また、奈良時代から近代にかけて、琵琶湖治水のために瀬田川の浚渫・改修が繰り返し計画・実施されることになる。なお、湖底遺跡は平安時代末期を存続の終期とするものが多い。 中世の文書や絵図に記された耕地の一部は、後に琵琶湖や内湖(ないこ)に水没している。後述する津の立地の変化の例として、この時期に琵琶湖水位の上昇により内湖(ないこ)が失われた木津(こづ、新旭町)に代わって、今津が発展するようになったことが挙げられる。また横江遺跡(守山市)などにおいては、鎌倉時代ごろの堀で囲まれた集落が確認されている。これらの堀はその深さや幅から、防衛機能よりも灌漑・排水や舟運としての性格が強かったと推測されており、水野 (2011, p. 10) は、琵琶湖の水位上昇に対応しての洪水対策という役割の可能性についても言及している。 織田・豊臣政権においては、安土城を拠点に湖上を一括管理し、経済・社会的に利用することが試みられた。安土城が築かれた大中湖一帯は、このころまで政治的中心地であったが、以降琵琶湖との間に砂州が形成されるなどしたため、豊臣・徳川政権と時代が進むにつれ、膳所や彦根にその地位を譲ることとなった。江戸時代の琵琶湖周辺域には、200あまりの集落があり、後述するように周囲の集落や田畑にはホリと呼ばれる水路が張り巡らされていた。 近代以降琵琶湖の面積は、1890年代の推定688平方キロメートルから、1990年代には669平方キロメートルまで減少している。この要因としては、南郷洗堰の築造に関連する水位の低下のほか、干拓・埋め立てや湖岸整備といった人為的なものが大きいと考えられる。
※この「環境史」の解説は、「琵琶湖」の解説の一部です。
「環境史」を含む「琵琶湖」の記事については、「琵琶湖」の概要を参照ください。
- 環境史のページへのリンク