無甲板ボートの旅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/12 14:30 UTC 版)
「ジェイムズ・ケアード号の航海」の記事における「無甲板ボートの旅」の解説
シャクルトンは出発前に、フランク・ワイルドにジェイムズ・ケアード号が出発すれば直ぐに、全指揮を執るように指示し、この旅が失敗すれば、翌春に隊員をデセプション島に連れていく試みを行うよう指示した。ジェイムズ・ケアード号は1916年4月24日にエレファント島を出発した。風は穏やかな南西風であったがそれが迅速な出発の助けとなり、ボートは直ぐに島の視界から消えた。 シャクルトンはワースリーに、真っ直ぐサウスジョージアに向かうのではなく、真北に進路を採るよう命じた。これは結氷し始めていた浮氷の原を避けるためだった。出発した夜半までに氷を背後にしたが、海はうねりが出ていた。翌日の夜明け、船はエレファント島から45海里 (83 km) 来ており、荒海と風力9の風(風速20.8〜24.4m/s)の中を走った。3人2組がウォッチにあたることとし、1人は舵、1人は帆、3人目が水の搔い出しにあたった。非番の3人は船首の小さな覆いのあるスペースで休んだ。当番が終わったときに場所を交代するときの難しさについて、シャクルトンは「それほど多くの痛みを感じなければ、ユーモアで処理してもよかった」と記している。その衣類は無甲板ボートの旅ではなく、南極の橇の旅のためにデザインされており、耐水性は無かった。凍るような海水に触れることが繰り返され、その肌は痛みっぱなしになった。 成功の鍵はワースリーの位置観測にあった。それは日の出の僅かな時間の間に、縦揺れ横揺れするボートの上で目視で行われた。最初に観測できたのは2日後のことであり、エレファント島から北に128海里(237 km) 来ていた。コースはサウスジョージア島に真っ直ぐ向かう方向に修正された。流氷の危険性は去っていたが、ドレーク海峡という危険な海域に差し掛かっており、陸地に妨げられない大波が地球を洗っていた。船が動くことでプリムス・ストーブで食料を温めることがほとんど不可能になり、コックになっていたクリーンは何とかして隊員に食べさせることを続けた。 次に位置観測ができたのは4月29日であり、238海里 (441 km) 移動してきていた。その後、最悪の気象条件になったので、観測は「想像力の楽しいふざけ」になったとワースリーは表現している。ジェイムズ・ケアード号は荒海で水を被り、沈没の危険性も常にあったが、絶え間ない搔い出しで沈没を免れていた。しかし気温が急速に降下し、凍った飛沫が蓄積され、そのために転覆する危険性が出てきた。隊員は斧を持って横揺れする甲板に這い出て、甲板や帆桁の氷を落とす必要があった。海錨を降ろして48時間停止し、風が収まるの待って帆を上げ前進した。これだけ骨折りしても、5月4日にワースリーが3回目の観測を行った結果では、サウスジョージア島までまだ250海里 (460 km) もあった。 5月5日、最悪の天候が戻って来て、これまで最大の荒海となり危険性が増した。シャクルトンは後に「我々のボートが持ち上げられ、波を破る時にはコルクの様に放り出されるのを感じた」と記した。ボートが沈まないように乗組員は死に物狂いで水を掻き出していた。それでもボートは目標に向かって前進を続け、翌5月6日にワースリーが推測航法で計算すると、サウスジョージア島の西端まで115海里(213 km) に来ていた。しかしこのときまでの2週間で溜まった疲労が隊員に重くのし掛かっていた。シャクルトンは、ビンセントが限界にきて活動できなくなり、マッカーシーは「弱いがハッピー」であり、マクニッシュは弱っているがそれでも「気概と精神」を示していると評していた。 5月7日、ワースリーがシャクルトンに、現在位置の精度が10マイル (16 km) 以内には抑えられないと告げた。強い南西風によって島を通り過ぎるほど吹き流される危険性を避けるために、シャクルトンはジェイムズ・ケアード号を島の人が住んでいない南西海岸に着けるようコースを少し変えるよう命じた。そこまで行けばボートを回して、島の反対側にある捕鯨基地に行けるかを試すことができると考えた。シャクルトンは「当時の我々にとって物事はすべて悪かった」と記したが、一方で「光明の時は、長く厳しい夜のウォッチの間に暖かいミルクのマグカップを、我々それぞれが受け取る時だった」とも記した。5月7日の遅い時間に、海藻が浮いているのを視認でき、翌朝には鵜など鳥の姿が見られた。鵜は陸から遠くには離れないことが分かっていた。5月8日正午を回った頃、サウスジョージア島を初めて視認した。 ボートが海岸線の高い崖に近づくと、荒海のために直接上陸するのは不可能だった。24時間というもの、彼らは離れて待つことを強いられた。風が北西寄りに変わり、「これまで経験したことのないような最大級のハリケーン」が急速に発達したためだった。この時間の大半では岩がちなサウスジョージア島の海岸に打ち付けられるか、その海岸から5マイル (8 km) 離れたアンネコフ島に同じくらい吹き寄せられて難破する危険性があった。5月10日、嵐が幾分和らいだとき、シャクルトンは弱っている隊員が次の日まで体力が続かないことを心配し、障害がなんであれ上陸を試みる必要があると判断した。彼らはキングホーコン湾入り口に近いケイブコーブに向かい、最後は数回試みた後でそこに上陸できた。シャクルトンは後にこのボートの航海のことを、「究極の闘争の1つ」と表現していた。歴史家のキャロル・アレクサンダーは「彼らは権威筋の注意深く重みづけした判断がなされるのを知ることがないか、あるいは気に掛けないかもしれないが、ジェイムズ・ケアード号の航海はかつてなされたボートの旅で最大級にランク付けされることになるだろう」と評している。
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