災害と複線電化に伴う駅の移転
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 09:40 UTC 版)
「能生駅」の記事における「災害と複線電化に伴う駅の移転」の解説
「頸城トンネル」も参照 1962年(昭和37年)6月30日には、能生駅を含む区間が単線自動閉塞を施行された。さらに当駅と筒石駅の間に1962年(昭和37年)9月28日に百川信号場が、浦本駅との間に1964年(昭和39年)9月22日に木浦信号場が、それぞれ設置された。 糸魚川 - 直江津間の北陸本線は、地すべり・雪崩・積雪・風水害などの災害が相次ぐ区間であった。1963年(昭和38年)3月16日16時過ぎ、能生町小泊において大規模な地すべりが発生し、能生駅を出発した直後であった敦賀発直江津行き7両編成の普通列車が崩壊区間に突っ込む事故が起きた。地元の住宅約30戸が地すべりに巻き込まれて全壊し、死者2名、行方不明者2名を出し、機関車は日本海まで押し流されたものの、列車の乗員乗客約150名は全員が無事であった。この災害により20日間にわたって北陸本線が不通となった。 こうした防災上の問題点を抱えていたことに加え、この当時北陸本線の輸送需要が増加しつつあって線路容量の低いこの付近が隘路となっていたことから早期の複線化が望まれ、1963年(昭和38年)6月14日に複線化ルートの調査が開始された。この結果、現在線では地すべりの時期も規模も予想困難で、抜本的な防止対策は不可能であり、危険度の高い地域を避けて新線を建設する必要があると結論付けられた。これに基づいてAからCの3つのルートが立案されて比較検討されたが、能生駅については3ルートいずれでも現在駅から約700メートル山側に移転するものとなっていた。 こうした検討のための地質調査を1964年(昭和39年)1月に完了したが、この際に相当内陸側まで調査を行っていたことや、当時世界最長となるトンネルの構想があることなどが新聞で先に報じられていたことから、地元では現在の路線と駅がなくなることへの不安が広がり、反対運動が開始された。多数の通勤通学旅客がバス輸送に転移しなければならないこと、鮮魚の搬出輸送ができなくなること、商工業に打撃があること、海水浴場の営業に問題があることなどが反対の論点で、影響を受ける糸魚川市、能生町、名立町などが連携して反対運動を行った。国鉄の地質調査委員会は3月に現在線の線増工事は不可能と結論を出したことから、各市町で反対決議がおこなわれ、反対運動が激化することになった。特に、もっとも長いトンネルとなる案では名立町には駅がなくなることから、名立町から強い反発があった。現在線を複線電化することが要望され、また新潟県ではトンネル案が実現する場合は現在線をローカル線として残すという提案もなされた。国鉄が検討した現在線に近い新ルートにおいて、名立駅は現在駅より約800メートル山側に移設して存続という提案がなされたことから、名立町では妥協する動きが生まれ、事実上反対運動を終結した。これに対して能生町ではあくまで強く反対する動きがあり、特に筒石駅がなくなることに対して、トンネル内に残すことができないかの交渉が続けられた。最終的に頸城トンネル内に筒石駅を設置することで妥協が図られ、1965年(昭和40年)10月に覚書が交換されて反対運動が終結した。これにより能生駅は約700メートル山側を通る新線上に移転することになった。これには、能生の町が南の方向へ発展するしか余地がなく、線路で市街地を分断させないという狙いもあった。 1966年(昭和41年)3月1日に複線電化工事の起工式が行われた。浦本 - 有間川間は1969年(昭和44年)9月29日に新線に切り替えられ、能生駅も新駅に移転した。旧駅跡地は現在文化体育館となっており、記念之碑が能生地区公民館の前に建っている。新駅に通じる道路の沿線が新たに発展し、スーパーマーケットが開店するなどした。
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