海外での受容
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1918年の『Japan Magazine』に載った伊藤銀月による忍術の記事が海外における忍者について最初の情報とされるが、1964年の『Newsweek』に、忍者の歴史や技の説明や日本での忍者ブームについて触れた記事が掲載され、これが欧米の忍者ブームの濫觴となった。忍者が登場する最初の海外作品は1967年に映画化された『007は二度死ぬ』(小説は1964年)で、現代版忍者の海外での最初のイメージを作った。これ以降、忍者は欧米の大衆文化において「売れるブランド」として小説・映画が多数作られ、1970年には、欧文による最初のものと思われる英語の忍者解説書『見えない暗殺者』が出版された。1970-1980年代には格闘技としての忍術も広まり、忍者トレーニングなど、忍術の実践そのものへの熱意といった日本とは異なる現象もみられる。 1980年代には米国製ニンジャ映画の大ヒットでアメリカにニンジャブームが巻き起こり、一連の作品に主演したショー・コスギは日本人初の出演料100万ドルハリウッドスターとなった。ほかに、アメコミとして登場し後にアニメ化された『ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ』や、職業として忍者が登場するゲーム『ウィザードリィ』シリーズなど、様々なジャンルに作品が存在し、日本でも放映や発売されたりもしている。ただし「昼間から黒装束でビルの壁面にへばりつく」「武器としてヌンチャク、サイ、トンファーなど忍者の使用していない武器を使用する」「一撃必殺の貴重な手段である手裏剣を大量に乱れ投げする」「火薬やポンプ等の原理なしに魔法のように火柱や水を手や足元から出し隠れる為ではなく攻撃手段として使う火遁や水遁の術」など間違った忍者像も広まっている。前者においてはハリウッドにおけるニンジャ映画のアドバイザーとして招かれた日本人が間違いを指摘したところ、「それじゃニンジャの姿が見えないじゃないか。君はニンジャというものが全く分かっていない」と真顔で言われたというエピソードも関係者の談話として伝わっている[要出典]。 ハリウッドが描く忍者は反社会的で残酷な殺し屋であり、映画の舞台は現代の欧米で主人公は白人であり、日本の忍者とは異なるものだった。こうした忍者ブームは1987年で終わったが、この欧米産の忍者像が世界に広がり、香港映画、インド映画などでも忍者ブームが生み出された。これにより忍者の認知度は上がったが日本との繋がりは薄れた。1990年代以降もハリウッドでは「ブレイド」(1998)、「Ninja」(2009)、「ニンジャ・アサシン」(2009)といった忍者映画が作られているが、それ以前のハリウッド忍者映画の特徴であった白人男性のみをヒーローとしたアクション映画と異なり、黒人や東洋人をもヒーローとして映画に登場させるなどの変化がみられた。しかし、描かれる忍者像はあくまで日本のそれとは異なる空想上のものであり、「忍者ほど世界史においてよく知られ、にもかかわらずひどく誤解されているものはない」ものとなった。2000年代には海外産の忍者映画を観て育った世代によりアフリカでも忍者映画が作られるようになった。それらは、正義のカンフーに対抗する悪の忍者という香港忍者映画の図式を踏襲し、正義のムスリムvs悪の忍者として描かれている。
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海外での受容
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大学図書館システムNACSISで確認できる範囲では、英語、ロシア語、中国語、韓国語に著作が翻訳されている。このうちロシア語訳されたものは4作確認でき、最も多い。
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海外での受容
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グロリオサの一種、G.rothschildianaは、ジンバブエの国花であり、かつてローデシアの国花でもあった。
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