洪水、干魃とその遺産
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/11 01:18 UTC 版)
「サンタアナ川」の記事における「洪水、干魃とその遺産」の解説
1860年代はその繁栄の度を増した時代だったが、一連の自然災害に見舞われた時でもあった。1862年、一連のハリケーンによる大雨によってサンタアナ川の岸が崩壊し、数千エーカーの土地に浸水して、20ないし40人の命を奪った。それまでの記録にも無い大洪水となった。川沿いの堤防が多くの場所で決壊し、サンタアナ・キャニオンの出口からサンタアナ山脈を抜ける川筋まで数マイルの幅に拡がった水がインランド・エンパイアの部分に溢れた。下流のオレンジ郡では存在した洪水対策の工作物をほとんど全て無力化し、海岸平原は内陸の海に変わった。その水流は1000年に1度のものと言われ、最高時にはミシシッピ川の平均流量の半分以上となるおよそ 9,000 m³/s と計算された。洪水が終わった後ですら、この地域には逆境が続いた。洪水の後2年間極度の干魃のために数万頭の家畜が死んだ。この3年間に味わった困難さにも拘わらず、状態が平静に戻ったあとのサンタアナ川流域は再度繁栄する農業地域になった。サンタアナ市とリバーサイド市がそれぞれ1869年と1870年に設立された。 1934年と1938年に起こった破壊的に洪水によって地域の柑橘類産業が一部終わらせられることになった。1938年、サンタアナ川の堤防が再び決壊し、アナハイム市とオレンジ市は水深4フィート (120 cm) まで水没し、数千エーカーの表土を奪い、柑橘類の樹林の多くを破壊した。この惨事で約60人が死亡し、約68,400エーカー (273 km²) の土地が水没した。ただし、流量は1862年の3分の1に過ぎなかった。この洪水の被害が甚大だったので、アメリカ陸軍工兵司令部は1940年代からダムを造り、川をコンクリートで固めることを始め、ミシシッピ川より西では最大の対洪水対策と宣言した。プラド・ダムが1941年に建設され、河口から約30マイル (48 km) 上流のインランド・エンパイアで水を止めるように設計された。このダムの貯水池であるプラド洪水制御ベースンは70年に1回の洪水を扱えるようになった。 プラド・ダムによって対洪水対策が増したことで、南のロサンゼルス盆地から主要製造業が移ってくるようになり、1950年代と1960年代は南カリフォルニアの住宅ブームが起こり、サンタアナ川流域は3度目にして最後の土地用途の変遷、すなわち農業用地から都市化への転換が進んだ。サンタアナ川盆地の人口は劇的に増加したが、それと共に洪水による損害の規模も大きくなる恐れが出てきて、プラド・ダムで与えられる保護もいささか覚束ないものだった。住宅や都市化部がかつては農地だった川の洪水面にまで伸びてきて、川は狭い水路に押し込められるようになり、20世紀の変わり目頃に起こったような洪水ならばより大きな損害を与えることが予測された。道路や建物の建設により降雨のときのいわゆる都市流出水で川に流れ込む水が問題になった。実際にサンタアナ川は1969年に再度洪水を起こし、インランド・エンパイアの流出水の大半はプラド・ダムで止まって、おそらくオレンジ郡の大きな洪水を防いだが、サンタアナ山脈から流れ出る大きな支流であるサンティアゴ・クリークはその岸が抉られて、タスティンやオレンジの町では住宅がある地区の岸が無くなるまでになった。 1964年、サンタアナ川主流プロジェクトが初めて提案された。これは下流の30.4マイル (48.6 km) をコンクリートで固めてしまうものであり、1989年に工事が始まり、今日のオレンジ郡内の水路は事実上巨大な排水溝になっている。2つめのダムであるセブンオークス・ダムが1999年に完工した。このダムはサンタアナ・キャニオンの流出水がインランド・エンパイアに入る前に抑えている。このダムは350年に1度の洪水に耐えるよう設計された。今日の川は堤防の間とコンクリート水路の中にあり、特に下流域では洪水を排水する水路としてのみ機能している。
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