江戸出府・講武所教授
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 21:38 UTC 版)
嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国のペリー提督率いる黒船が来航するなど蘭学者の知識が求められる時代となり、益次郎は伊予宇和島藩の要請で出仕する。ただし宇和島藩関係者の証言では、益次郎はシーボルト門人で高名な蘭学者の二宮敬作を訪ねるのが目的で宇和島に来たのであり、藩側から要請したものでないという。 宇和島に到着した益次郎は、二宮や藩の顧問格であった僧晦厳や高野長英門下で蘭学の造詣の深い藩士大野昌三郎らと知り合い、一級の蘭学者として藩主に推挙される。このとき藩主・伊達宗城は参勤交代で不在、家老も京都へ出張中であった。宇和島藩の役人たちは、益次郎の待遇を2人扶持・年給10両という低い禄高に決めた。しかし、このあと帰ってきた家老は役人たちを叱責し、100石取の上士格御雇へ改めた。役人たちにしてみれば、高待遇の約束といった事情も説明せず、汚い身なりで現れた益次郎に対して、むしろ親切心をもってした待遇であったらしい。 益次郎は宇和島藩で西洋兵学・蘭学の講義と翻訳を手がけ、宇和島城北部に樺崎砲台を築く。安政元年(1854年)から翌安政2年(1855年)には長崎へ赴いて軍艦製造の研究を行った。長崎へは二宮敬作が同行し、敬作からシーボルトの娘で産科修行をしていた楠本イネを紹介され、蘭学を教える。イネは後年、益次郎が襲撃された後、蘭医ボードウィンの治療方針のもとで大村を看護し、最期を看取っている。宇和島では提灯屋の嘉蔵(後の前原巧山)とともに洋式軍艦の雛形を製造する。ただし、わずかな差で国産初ではない(国産第1号は薩摩藩)といわれている。益次郎はこの謙虚で身分の低いほとんど無学の職人・嘉蔵の才能に驚かされたという。この頃に「村田 蔵六(むらた ぞうろく)」(蔵六は亀の意)と改名する。 安政3年(1856年)4月、藩主・宗城の参勤にしたがって江戸に出る。同年11月1日、私塾「鳩居堂」を麹町に開塾して蘭学・兵学・医学を教える(塾頭は太田静馬)。同16日、宇和島藩御雇の身分のまま幕府の蕃書調所教授方手伝となり、外交文書、洋書翻訳のほか兵学講義、オランダ語講義などを行い、月米20人扶持・年給20両を支給される。安政4年(1857年)11月11日、築地の幕府の講武所教授となり、最新の兵学書の翻訳と講義を行った。その内容の素晴らしさは同僚の原田敬策が「当時講武所における平書翻訳のごときは、先生(益次郎のこと)の参られてからにわかに面目を一新した次第で……新規舶来の原書の難文も、先生の前に行けばいつも容易に解釈せられ」と記しているように、当時では最高水準のもので、安政5年(1858年)幕府より銀15枚の褒章を受けた。同年3月19日には長州藩上屋敷において開催された蘭書会読会に参加し、兵学書の講義を行うが、このとき桂小五郎(のちの木戸孝允)と知り合う。これを機に万延元年(1860年)、長州藩の要請により江戸在住のまま同藩士となり、扶持は年米25俵を支給される。塾の場所も麻布の長州藩中屋敷に移る。文久元年(1861年)正月、一時帰藩する。西洋兵学研究所だった博習堂の学習カリキュラムの改訂に従事するとともに、下関周辺の海防調査も行う。同年4月、江戸へいったん帰り、文久2年(1862年)、幕府から委託されて英語、数学を教えていたヘボンのもとで学んだ。江戸滞在時には箕作阮甫、大槻俊斎、桂川甫周、福澤諭吉、大鳥圭介といった蘭学者・洋学者や旧友とも付き合いがあった。
※この「江戸出府・講武所教授」の解説は、「大村益次郎」の解説の一部です。
「江戸出府・講武所教授」を含む「大村益次郎」の記事については、「大村益次郎」の概要を参照ください。
- 江戸出府・講武所教授のページへのリンク