江戸出府、名剣士たちとの対決
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「大石種次」の記事における「江戸出府、名剣士たちとの対決」の解説
天保3年(1832年)、藩から聞次役を命じられ、暮れに江戸へ出府。種次は3ヶ月間、江戸府内の名門道場に次々と挑み、長身から繰り出される長竹刀に突き伏せられない者はいなかったといわれる。この間、千葉周作がかろうじて引き分けた(千葉は進の突きを防ぐために樽のふたを竹刀の鍔に使用したといわれる。)ほかは、『一刀流極意』によるとただひとり白井亨(天真一刀流、天真白井流)が種次を破ったという。このため、江戸の各道場は、大恐慌を来したといわれ、大石は竹刀に大きな鍔をはめていたことから大鍔先生と称された。 講談師伊東燕尾は、大石に敗れたために講談師になったという逸話もある。 翌天保4年(1833年)、種次はさらに、当時随一の実力といわれた男谷信友と試合する。初日は男谷が勝利した。なぜか男谷が頭を左右に振るだけで進の切っ先はかわされた。しかし、翌日、工夫して狙いをやや下げたところ、男谷がどんなに避けようとしても突きが命中し、今度は種次が勝った。日を改めて試合したが、男谷にも種次の突きは手に負えなかった。男谷は種次の技に感心して、諸方の師範家や高名な剣士の入門をあっせんしたという。同年、帰国して60石へ加増を受けた。 天保10年(1839年)、江戸へ再出府する。すでに種次の剣名は高く、旗本や諸藩の士が入門に詰めかけたという。同年9月3日、老中水野忠邦邸に招かれ、田島岩尾、島田虎之助らと技を戦わせた。 天保11年(1840年)、帰国して70石に加増され、100石高の軍役を申しつけられた。
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