江戸出訴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 16:44 UTC 版)
那留ヶ野で盟約を交わした翌日の宝暦5年8月13日(1755年9月18日)、70余名の農民代表が江戸の金森藩邸に出訴するため郡上を出発した。農民代表の江戸出訴を1500名余りと伝えられる多くの農民が見送ったが、江戸に送った代表たちのことが気がかりになった農民は、宝暦5年8月22日(1755年9月27日)には、百石につき一名の割合で選んだ200名余りを新たに江戸に送った。しかし8月13日に出発した農民たちは那留ヶ野の盟約時に選ばれた農民代表であったが、8月22日に出発した農民は特に選ばれた人たちではなかったため統制が取れず、いつしかちりぢりとなってしまい全く役に立たなかった。なお当時、各街道には関所が設けられ通行手形のチェックが行われていたが、乞食、非人、渡世人ら村や都市に籍を置いていない人々については手形無しの関所通過が黙認されていた。江戸に向かった郡上の農民たちのいで立ちはみすぼらしく、乞食同然の姿であったため、通行手形無しの関所通過が咎められることはなかった。 宝暦5年8月13日(1755年9月18日)に郡上を出発した農民代表は、9月初旬に江戸に到着した。江戸到着時、出発時70余名であった農民代表は40名に減少していた。江戸到着後、農民代表は馬喰町猶右衛門、鉄砲町太郎右衛門などに分かれて宿を定めた。代表たちはまずは江戸金森藩邸に願書を提出することとした。
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