那留ヶ野の盟約
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宝暦5年8月12日(1755年9月17日)、郡上八幡の中心部から離れており、かつ山に囲まれた谷間であるため藩の弾圧が及びにくい白鳥那留ヶ野に、主だった農民約70名が集まって盟約を結び傘連判状を作成した。その上で読み書きの能力などを考慮の上で各人の役割分担を行い、更に江戸にて訴訟を進めるための計画を立てた。この時点で郡上郡内各地域の農民代表による集団指導が成立した。農民代表らの構想は、まず藩主へ直訴することによって悪い役人が強行しようとしている年貢徴収法の改正を中止させることを目指した。 那留ヶ野の盟約の後、郡上郡内の各地で農民らの盟約が交わされ、連判状、傘連判状などが作成された。これは農民らが団結して笠松陣屋から宝暦5年7月21日(1755年8月28日)に行われた申し渡しを受け入れないことと、庄屋の同申し渡しの受け入れ印形撤回を要求するものであった。
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