意見対立の表面化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 16:44 UTC 版)
郡上領の境にあたる母野には、庄屋たちの郡上帰還を阻止するために大勢の農民が集まり続けていた。宝暦5年7月21日(1755年8月28日)の笠松陣屋における検見法受け入れの強要後に再燃した一揆は、騒動開始直後の高揚に加えて、農民内の主だった者が江戸に出訴した後には押さえが効かなくなったこともあり、過度に先鋭化した行動も見られた。例えば年貢を納めるように郡上藩側から指示が有ると、母野から少しも年貢を納めてはならない旨の指示がやってきたり、特に水呑百姓の中には寺社奉行の高札を引き抜くなど過激な行動に走る者も現れた。 しかし早くも一揆勢内部に意見対立が現れ始めた。まず江戸出訴を行った40名の農民代表が分かれて宿泊した馬喰町猶右衛門宿、鉄砲町太郎右衛門宿の農民たちの間に意見対立が発生した。馬喰町猶右衛門宿に止宿した切立村喜四郎らはあくまで検見法を受け入れない立場を貫くべきだと主張したのに対し、鉄砲町太郎右衛門宿に止宿した歩岐島増右衛門らは宝暦4年(1754年)の十六か条、そして江戸出訴組が提出した十七か条の願書の受け入れを条件として検見法を受け入れるべきであると主張した。検見法受け入れ絶対阻止の切立村喜四郎らは郡上一揆の主流派となり、その後の運動を主導していくことになるが、反主流派となった歩岐島増右衛門らはやがて一揆に反対する強固な寝者となっていった。
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