江戸出訴一件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 09:30 UTC 版)
明和元年(1764年)高木家領時郷時山村百姓28人が高木家の統治を不服とし、高木家領地支配の非道を江戸の幕府奉行所に直訴に出た。11月6日の早朝、百姓の一人が高木家屋敷で直訴を宣言して駆け去ると、集団で江戸に向かった。高木家では居残りの百姓から情報を収集し、出訴百姓の江戸到着を確認した高木家は長島藩郡奉行に江戸での協力を要請した。この時、長島藩では日頃の恩義に報いるため、役人一人を江戸に派遣して便宜に当った。 11月21日、時山村の百姓28人は江戸幕府の寺社奉行に駆込訴をし、連名で訴状を提出した。寺社奉行は百姓を公事宿預けとし、同月末に高木家の江戸留守居へ百姓の身柄を引き渡した。高木家は国元で裁判をする方針であったが、百姓は幕府からの帰国の説得にも応じなかった。高木家では裁判の管轄など幕府への対応のため、血縁関係のある尾張藩家臣遠山家、越前勝山藩主小笠原家、近江彦根藩家臣長野家、また地縁による美濃大垣藩主戸田家(遠縁)、伊勢長島藩主増山家などの協力者を交えて対応策を調整した。閏12月上旬、高木家江戸留守居役は手鎖・駕籠籠を用いた出訴百姓の強制帰国を諸藩に相談するとともに国元に連絡した。12月7日に高木家留守居役が老中に取り計らいを打診した。閏12月末、高木家では百姓へ帰国を命じたが効果がなかったため、幕府による公裁を受けることとし、年明けの明和2年(1765年)1月16日に老中へ書類を提出し、21日には高木家留守居より町奉行へ百姓が引き渡された。吟味は半年に及び、10月11日に裁決が申し渡され、百姓側では組頭3名が役儀を取り上げられて押込めとなり、百姓18名が手鎖に処せられた。高木家家臣については処罰なし。その他に百姓側の組頭1名と百姓6名は吟味中の病死によりお構いなしとなった。
※この「江戸出訴一件」の解説は、「美濃衆」の解説の一部です。
「江戸出訴一件」を含む「美濃衆」の記事については、「美濃衆」の概要を参照ください。
- 江戸出訴一件のページへのリンク