太枡騒動の発生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/06 08:00 UTC 版)
田安領の陣屋元である一町田中村(山梨市一町田中)の磯野家日記によれば、騒動発生の前年にあたる1792年(寛政4年)には、1782年(天明2年)以来在職の代官横田平五郎が不正により罷免され、新任代官として山口彦三郎が赴任した。山口により新枡(太枡)の適用による収奪取り締まりの強化が行われ、領主と領内百姓の間には不穏な空気が発生していたと考えられている。また、「日記」によれば寛政4年には郡奉行の石寺伊織・桜井藤四郎連名による触書が発せられており、この頃には領内百姓による集団訴願が発生し、田安家側の役人が対応に苦慮している様子が記されている。 「日記」によれば、1793年1月(寛政4年)には田安領内の百姓は江戸表への出訴を決意し、同年1月26日には一町田中村の田中陣屋(山梨市一町田中)へ押しかけ、江戸への出願実行を通告したという。これに対して代官山口は、江戸出訴は1770年(明和7年)の百姓一揆禁止令に反する行為であるとして、郡奉行石寺・桜井を通じて江戸出訴が実行された際には厳しい吟味を行う内容の触書を発している。 1793年(寛政4年)の年貢皆済期限が迫ると領民の間では江戸への越訴が計画される。越訴を実行する山梨郡綿塚村の長百姓・重右衛門、八代郡金田村(笛吹市一宮町)の長百姓・重右衛門、山梨郡熊野村(甲州市塩山)の勘兵衛の3人が中心となり会合を重ね、江戸越訴の実行を宣言するための前提として田中陣屋への出願を行った。 江戸越訴に際しては、この3人に加え山梨郡下石森村(山梨市下石森)の長百姓・与次郎兵衛、同郡小原村西分(山梨市西小原)の長百姓・伊右衛門、八代郡南八代村(笛吹市八代町)の長百姓・惣兵衛、同幸左衛門が加わり、この7人が指導者となった。 同年12月27日には田安家領63か村のうち山梨・八代両郡54か村から選出された惣代が江戸へ出府しさらに21人の出願実行者が選出される。 一行は江戸へ出府すると、1793年2月7日(寛政4年12月27日)に寺社奉行の立花種周(出雲守)に収奪強化など田安家の支配を糾弾し従来仕法への回帰を求める10か条の訴状を提出した。
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