東条一堂とは? わかりやすく解説

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とうじょういちどう 【東条一堂】

江戸末期儒学者。名は弘。上総の人。宋学斥け古註による学問推進。著『四書知言』他。(一七七八一八五七

東条一堂

読み方とうじょう いちどう

江戸後期儒者上総生。名は弘、字は子毅、通称文蔵、幼字を和七郎といった。初め皆川淇園門に入ったが、のち佐藤一斎尾藤二洲らと来往した。安政4年(1857)歿、80才。

東條一堂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/19 14:42 UTC 版)

東條 一堂
人物情報
別名 :子毅
通称:文蔵
諡号:古徴先生
生誕 (1778-12-25) 1778年12月25日
日本上総国埴生郡八幡原村(現・千葉県茂原市
死没 (1857-09-01) 1857年9月1日(78歳没)
国籍 日本
子供 東條方庵(子)
東條淡齋・東條永胤(孫)
学問
時代 江戸時代後期
学派 折衷学派
研究分野 儒学
研究機関 瑶池塾
影響を受けた人物 皆川淇園
亀田鵬斎
影響を与えた人物 #門人
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東條 一堂(とうじょう いちどう、1778年12月25日安永7年11月7日〉 - 1857年9月1日安政4年7月13日[2])は、江戸時代後期から幕末儒者折衷学派の一人[3]

「一堂」は[4]は「弘」、は「子毅」、通称「文蔵」[2]。別号に「焚書以上人」「橙蘇翁」「再蘇翁」、諡号は「古徴先生」[5]

生涯

上総国埴生郡八幡原村(現在の千葉県茂原市)の富農の家の次男として生まれる[2]。9歳のとき火災に遭い、一家で江戸に移る[6]

16歳のとき、儒者として政治に関わることを志し[7]京都皆川淇園に学んだ後、江戸で亀田鵬斎に学ぶ[2]

27歳のとき、弘前藩主の津軽寧親に招かれ藩校稽古館」の督学となるが、建白が受け入れられないのを不服として一年余で辞職[8][2]。江戸で私塾を開き、当初は駒込吉祥寺そばで「蜾蠃窟」、39歳で湯島昌平黌そばに移転、44歳で神田お玉ヶ池そばに移転し「瑶池塾」とした[9]。瑶池塾の隣には千葉周作の「玄武館」があり、相互に親交した[10]

神田東松下町の記念碑
玄武館および瑶池塾跡

塾が有名になるにつれ、各地の諸侯に招かれ進講するようになり、ペリー来航の際は阿部正弘に開港と海防を進言した[11]

73歳のとき、望郷の念から八幡原に半年帰郷[12]。80歳のとき病没した[13]

葛飾妙源寺茂原公園神田東松下町(玄武館・瑶池塾跡)に記念碑がある[14]

門人

私塾の受講生は三千人余に及び[15][1]、玄武館と兼学する者も多くいた[10]

特に志士清川八郎桃井可堂那珂通高鳥山新三郎吉田松陰の師)らがいたことから、松陰に劣らぬ「志士の父」とも言われる[15]。その他、高橋喜惣治[1][10]琳瑞森田悟由土屋三余らがいた。

親族

東條會館

子の東條方庵、孫の東條淡齋・東條永胤も儒者[16]。儒者の山井清渓に嫁いだ山井道子は孫娘にあたり[17]塩谷温はその遠戚にあたる[18]。曾孫の東條卯作は写真家であり、1912年に東京半蔵門そばに東條會館を設立した[19]

東條卯作や塩谷温は、1957年に東條會館で「東條一堂先生百年祭」を開催し[20]、追って『東條一堂著作集』『東条一堂小伝』を出版した。

学風・著作

宋の新注と漢唐の古注どちらも批判検討した上で、焚書以前の原義に迫ろうとした[21]。これは「焚書以上学」と呼ばれ、伊藤仁斎らの「古学」や、師の淇園・鵬斎の学に近いが異なる[22]

著作は百以上に及び、四書五経や『孝経』『荀子』『老子』『荘子』『列子』『国語』『世説新語』『宋名臣言行録』などへの注釈や考証、字書日本語学書、詩文集、『学範』(学問の心得[23])『ヤマトゴコロ辨非』(大国隆正大和心への批判[24])などがある[25]書簡建白書も現存する[26]

一部著作が翻刻されており、上記『東條一堂著作集』や[27]、戦前の『日本名家四書註釈全書』『日本儒林叢書』などに収録されている。

脚注

  1. ^ a b c 東條一堂生誕の地”. 千葉県茂原市の公式サイトへようこそ! (2015年). 2024年8月16日閲覧。
  2. ^ a b c d e f 渡部正一(日本大百科全書ニッポニカ)、ロバート・キャンベル(朝日日本歴史人物事典)『東条一堂』 - コトバンク
  3. ^ 武内義雄日本における老荘学」『武内義雄全集 第6巻 諸子篇1』角川書店、1978年(原著1937年)https://dl.ndl.go.jp/pid/12213729/1/122 235頁。
  4. ^ 東条一堂小伝 1959, p. 94.
  5. ^ 東条一堂小伝 1959, p. 48;66.
  6. ^ 東条一堂小伝 1959, p. 2.
  7. ^ 東条一堂小伝 1959, p. 9.
  8. ^ 東条一堂小伝 1959, p. 21.
  9. ^ 東条一堂小伝 1959, p. 23-27.
  10. ^ a b c 東条一堂小伝 1959, p. 33.
  11. ^ 東条一堂小伝 1959, p. 40.
  12. ^ 東条一堂小伝 1959, p. 54;56.
  13. ^ 東条一堂小伝 1959, p. 66.
  14. ^ 東条一堂小伝 1959, p. 72.
  15. ^ a b 東条一堂小伝 1959, p. 69.
  16. ^ 東条一堂小伝 1959, p. 70.
  17. ^ 山井道子』 - コトバンク
  18. ^ 東条一堂小伝 1959, p. ii.
  19. ^ 東条一堂小伝 1959, p. i;72;83.
  20. ^ 東条一堂小伝 1959, p. 72;77.
  21. ^ 東条一堂小伝 1959, p. 25.
  22. ^ 東条一堂小伝 1959, p. 48;67.
  23. ^ 東条一堂小伝 1959, p. 101.
  24. ^ 東条一堂小伝 1959, p. 95.
  25. ^ 東条一堂小伝 1959, p. 106-115.
  26. ^ 東条一堂小伝 1959, p. 53;62.
  27. ^ CRID 1130000793932285184

参考文献

関連項目


東条一堂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/02 04:40 UTC 版)

北斗の人」の記事における「東条一堂」の解説

当代第一級学識を持つ古学学者神田於玉ヶ池設けられた学塾には、その学才慕った若者達がはるばる遠国から訪ねてくるほどの盛名持ち主玄武館手狭になり適当な移設先を探していた周作は、東条塾に通う門人紹介で隣の敷地道場構えることとなる。「怪力乱神を語らず」の儒学思想信条とすることから周作合理精神基づいた剣術気に入り互いに連携して学生呼びこむことを持ちかけた。隣り合わせで建つことになった東条塾と玄武館には学問と剣で天下轟いた二人盛名を慕う学生全国から集まるようになり、文武双方極められるという利便性から大い評判呼んでそろって江戸第一繁栄ぶりを示すこととなる。

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