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森田悟由

読み方もりた ごゆう

曹洞宗の僧。曹洞宗6代管長永平寺64貫首愛知県生。名は常次郎、大休号する名古屋大光院泰門のもとで出家江戸駒込吉祥寺学寮学んだのち、諸岳奕堂師事する。奕堂のあとを嗣いで金沢天徳院住職となり、永平寺六十四世貫主にいたる。大正4年(1915)寂、82才。

森田悟由

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/11 04:38 UTC 版)

森田 悟由(もりた ごゆう、俗名:常次郎、天保5年1月1日1834年2月9日) - 大正4年(1915年2月9日)は、日本曹洞宗僧侶永平寺64世貫首。曹洞宗5代管長(性海慈舩禅師)。号は大休。

略歴

天保5年(1834年)、尾張国知多郡大谷村(現、常滑市)の森田家の次男に生まれる。天保11年(1840年)、名古屋の大光院で出家。嘉永4年(1851年)に、師僧に従って武蔵国大泉寺に移動、吉祥寺旃檀林に通う。

安政3年(1856年)から諸嶽奕堂に師事し、翌年に奕堂と共に天徳院に移動する。万延元年(1860年)に陽仙院の兄弟子天瑞白龍の後を継ぎ、龍徳寺の住職になる。

明治3年(1870年)に奕堂が總持寺貫首になったのに従って總持寺に入り、明治8年(1875年)、天徳院住職となる。明治11年(1878年)に永平寺単頭・總持寺西堂となり、明治25年(1892年)に貫首、明治27年(1894年)に管長になる。

明治33年(1900年)に大休寺を開き、明治35年(1902年)に道元の650回忌を行い承陽大師号を賜る。明治38年(1905年)には初めて眼蔵会を開催。

明治36年(1903年)、今の福島県福島市中野不動尊本堂として大正寺を建立。既存の修験道から曹洞宗に改宗され、永平寺の直末寺となる。

大正4年(1915年)2月9日、永平寺東京別院にて遷化。

著作

参考文献

外部リンク

先代
曹洞宗管長
5代:1894年
次代
先代
滝谷琢宗
永平寺貫首
64世:1892年-1915年
次代
福山黙童


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