諸岳奕堂とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 人名 > 美術人名辞典 > 諸岳奕堂の意味・解説 

諸岳奕堂

読み方もろたけ

曹洞宗の僧。総持寺独住一世名古屋生。崖・三界無頼・無以子と号す。9才で愛知郡聖応寺雪堂について得度その後霊若寺麟、黄竜寺道契、岐阜竜泰寺来応などに就いて学ぶ。香積寺風外本高のもとで大悟し、印可受けた京都山科大空寺の住職となり、のち前橋竜雲院金沢天徳院へと転住明治初期永平総持本山争い終結させ総持寺独住第一世となり、弘済慈徳禅師と賜号される。明治12年(1879)寂、75才。

諸嶽奕堂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/16 00:00 UTC 版)

諸嶽 奕堂(もろたけ えきどう[1]、またはしょがく えきどう[2]、俗姓:平野、1805年文化2年)[1] - 1879年明治12年)8月24日[1])は、日本曹洞宗僧侶[1]。總持寺独住1世、曹洞宗管長(弘済慈徳禅師)。号は旃崖・無以子[3]

略歴

文化2年に尾張国(現・愛知県名古屋市)に生まれる。1813年(文化10年)愛知郡豊明村(現・豊明市)聖應寺にて出家、霊若寺、黄龍寺、龍泰寺にて修行を重ね、三河国香積寺にて風外本高の下で悟りを開く[3]

1847年弘化4年)に京山科大宅寺住職となり、上野国龍海院天徳院を歴住。永平寺・總持寺の内紛を収めて、1870年(明治3年)に総持寺独住1世に[1]、その後曹洞宗管長に就任した[1]

1879年(明治12年)8月24日[1]山形県善宝寺で遷化。75歳没[1]

弟子

森田悟由滝谷琢宗

著書

  • 『懶眠余稿』(金山貫苗、1891年)
  • 『総持奕堂禅師遺稿』(蘿月照巌編、1896年)
  • 『旃崖奕堂禅師語録』(蘿月照巌編、川口高風解説、1987年)

脚注・参考文献

脚注
  1. ^ a b c d e f g h デジタル版 日本人名大辞典+Plus. “諸岳奕堂”. コトバンク. 株式会社DIGITALIO. 2020年7月11日閲覧。
  2. ^ 旃崖”. CiNii. 2016年3月13日閲覧。
  3. ^ a b 美術人名辞典. “諸岳奕堂”. コトバンク. 株式会社DIGITALIO. 2020年7月11日閲覧。
参考文献
先代
總持寺
独住1世:1870-
次代
畔上楳仙


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「諸岳奕堂」の関連用語

諸岳奕堂のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



諸岳奕堂のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
株式会社思文閣株式会社思文閣
Copyright(c)2024 SHIBUNKAKU Co., Ltd. ALL RIGHTS RESERVED.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの諸嶽奕堂 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS