東条吉良家の跡目・後見についてとは? わかりやすく解説

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東条吉良家の跡目・後見について

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 15:27 UTC 版)

松平義春」の記事における「東条吉良家の跡目・後見について」の解説

義春は東条松平家初祖とされるが、三河幡豆郡吉良斑馬現在の西尾市吉良町駮馬)の東条城5代目当主吉良義藤同族西条吉良義真応仁の乱の折に合戦に及び敗北出奔したが義嫡男吉良持清幼少であったのでその跡目継いだ、あるいは持清の後見人となったことから東条の名を冠したとされる。しかし、その事実を伝え確かな資料には乏しくまた長兄信忠延徳2年1490年誕生とされるため応仁文明戦乱期(1467年-1477年)と思われる義春の東条吉良家跡目後見両説疑問であり伝承としての性格が強い。 義春名義の文書大永3年1523年9月19日付で出した当時三河幡豆郡属した羽角現・西市内)の羽角馬天王社宛の寄進状がある。(同郡六栗花籠(現・額田郡幸田町)よりの永楽銭20貫文進納)。岡崎市中島から羽角・野馬・六栗縦貫する道、中島道中世以来の道とされ、この地域はかつて幡豆郡属し東条吉良氏支配地域であったとされる。このことから義春は東条吉良領内にその所領もしくは知行有していたと推定される(「幡豆神社誌」)。 一般的には同国碧海郡青野城に在住しとされるがこちらも資料乏しく近隣下和田所領係争において、今川義元が義春の嫡子松平忠茂宛てた弘治2年1556年9月2日付文書で父右京亮の代からの所領として安堵なされたことが知られ訴訟相手桜井松平家次監物)が敗訴している。

※この「東条吉良家の跡目・後見について」の解説は、「松平義春」の解説の一部です。
「東条吉良家の跡目・後見について」を含む「松平義春」の記事については、「松平義春」の概要を参照ください。

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