東条城の攻防戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/27 13:30 UTC 版)
駿河国の戦国大名・今川義元の死後、独立した松平氏の当主・松平元康が三河統一事業に敵対していたのが、三河の名族・吉良氏だった。 吉良義昭は、自らの居城・西尾城を家人に任せ、東条の城に入った。この城の正面になったのが、深溝松平氏二代目・松平好景の居城である深溝城だった。松平好景は中島城(現・愛知県岡崎市中島町後屋敷)へ入り、東条の城を牽制する形をとった。永禄4年(1561年)2月に家康自ら東条城を攻めたが、義昭はよく戦い、東条の城は落ちなかった。
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