本郷埴輪窯跡
名称: | 本郷埴輪窯跡 |
ふりがな: | ほんごうはにわかまあと |
種別: | 史跡 |
種別2: | |
都道府県: | 群馬県 |
市区町村: | 藤岡市本郷 |
管理団体: | |
指定年月日: | 1944.11.13(昭和19.11.13) |
指定基準: | 史6 |
特別指定年月日: | |
追加指定年月日: | |
解説文: | 丘陵の東南面傾斜地に營まれたるものにして二箇所ありて孰れも登窯の形式を示せり一は前部と後部との二分に分たれ前部は喇叭口状に擴がれり、後部は約30度の傾斜をなし長さ約13尺5寸幅約4尺を有し略々圓筒状をなせる如く側壁及底床は堅緻なる粘土を以て構成せられたり、前部は長さ約18尺幅約6尺を有し約10度の傾斜をなし後部に近き区域は焚口部をなせるものと認められ埴輪馬を初め各種の形象埴輪破片等散乱せり、一は其の北方約13尺の位置に位し略々同様なる形式を示し後部の長さ約16尺幅約5尺あり前部の区域より埴輪圓筒破片、埴輪馬破片、埴輪武器破片等出土せり。 我国に於ける上代埴輪窯の構造を示すものとして価値あるものとす。 |
本郷埴輪窯跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/06 10:40 UTC 版)
本郷埴輪窯跡(ほんごうはにわかまあと)は、群馬県藤岡市本郷に所在する、埴輪を焼成するための古墳時代の窯跡。国の史跡に指定されている。
概要
神流川の河岸段丘の傾斜地を利用して構築された登り窯群である。北約1.5キロメートルに位置する藤岡市街地は藤岡台地に位置しており、その下には特産品である瓦に現在も用いられる粘土層がある。当地の表土下にも同様の粘土層があることが、この地に埴輪窯が築かれる一因となったとみられる[1][2]。
1907年(明治39年)11月、道路造成で生じた崖面から、柴田常恵の調査によって土坑2つが発見され、うち1つから灰・木炭屑・焼土・埴輪片が見つかったことから、「埴輪製造の竈址」とみなされた[1][2]。
1943年(昭和18年)・1944年(昭和19年)に、柴田の発見した土坑の約50メートル北の地点で、2基の窯跡が尾崎喜左雄によって発見された。尾崎の発見したA窯・B窯は約4メートルの間隔を空けて、全長約10メートル幅約2メートルの規模で、窯底に段差のない登り窯が並んでおり、連続する約100メートルの同一平面上に20数基の同様の埴輪窯が存在したことが推定されている[1]。
窯跡で発見された埴輪片には人物埴輪や馬形埴輪、器財埴輪が含まれており、6世紀中から後半にかけて製作されたものとみられている[1]。
1944年(昭和19年)11月13日に史跡に指定された[3][4]。1945年(昭和20年)にA窯に覆屋がかけられ、発掘された状態を見学できるようになっている[5][1]。
埴輪窯は小林古墳群の南端に位置しており、群集墳被葬者と工人集団との関連が注目されている。埴輪窯の南約100メートルには埴輪起源神話の野見宿禰を祭神とする土師神社が存在し、土師氏との同族意識を持つ工人集団の存在が想定される[1][2]。
藤岡市内では他にも鮎川流域の猿田埴輪窯遺跡群が発見されており、埴輪の一大産地であったとみられている。藤岡地域の土を用いた埴輪が綿貫観音山古墳や洞山古墳群(伊勢崎市赤堀地区)などからも胎土の特徴から確認されており、埴輪製品あるいは原料粘土の供給源として埴輪生産の拠点となっていたと言える[2]。
脚注
- ^ a b c d e f 群馬県史編さん委員会 編『群馬県史』 資料編2 原始古代2、群馬県、1986年2月25日、449-454頁。doi:10.11501/9643984。(要登録)
- ^ a b c d 群馬県史編さん委員会 編『群馬県史』 通史編1 原始古代1、群馬県、1990年3月29日、935-939頁。doi:10.11501/9644487。(要登録)
- ^ “国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2024年8月28日閲覧。
- ^ “本郷埴輪窯址|藤岡市”. www.city.fujioka.gunma.jp. 2024年8月28日閲覧。
- ^ 多野藤岡地方誌編集委員会 編『多野藤岡地方誌』 総説編、多野藤岡地方誌編集委員会、1976年12月23日、775-776頁。doi:10.11501/9641325。(要登録)
座標: 北緯36度13分47.3秒 東経139度04分48.6秒 / 北緯36.229806度 東経139.080167度
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