最終版と受け入れ拒否
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1914年5月、カール・ラーションは彼自身が主導権をとって絵画の制作を再開した。1915年には、年間を通して彼が描いた下絵(No.239)を発表したが、それらはほとんど以前の絵画と同じものだった。王は、ラーションが1914年にリュードベリ(Rydberg)という名の男性モデルを描いた油絵(No.240)に基づいて描き直された。王の境遇はより感傷的な構図にされ豊かな表現力を得た。それは、ラーションがこの犠牲が自発的なものだったと判断した後、絵画制作を展開する間に生じた重点の変更と一致した。出来上がった絵画は、スウェーデンの古代史を題材にしながらもアール・ヌーヴォーの影響もみられる意匠的に優れた絵画となった。ウプサラの神殿の前庭、金色の斧を振り上げる大司祭(en)の前に、武装した勇士に囲まれた全裸の王が運ばれてくる。画面左には踊り狂う女性たち。男たちは北欧の青銅のホルン「ルーア」(en)を吹いている。介錯人が武器を隠して待機している。これらが、装飾的な浮き彫りをほどこしたような構図の中に描かれている。橇の左側の大司祭には新しい容姿が与えられた。また神殿の入り口には、著しい中国風の雰囲気を帯びたライオンの守護像が置かれた。色彩は力強く、そして、先史時代は灰色だったという一般的な見解をラーションが否認する意味で、かなりの面積に金色が使用された。 最終的な採決が下る前に、購入委員会とカール・ラーションは共に、教務大臣が新しい絵画に好意的であることを知っていた。しかしながら、大多数の購入委員会委員は、2人の賛成者を除くと、前館長ルーストレムと彼の後任のリッカルド・ベリを含めて反対した。その代わり委員会は、別の絵画を制作してもらいたいとカール・ラーションに依頼した。カール・ラーションは当初答えを出さなかったが、彼は言論界において、『冬至の生贄』を自分がこれまで制作してきた中で最も重要で最高に美しい作品の1つとみなすと宣言した。 大臣は専門家に助言を求め、議論は新聞上でも続けられた。政治的な側面からの憎しみがベリとラーションの間にあったという疑いも持たれた。しかしこれらの疑いは、ずっと後にネルケ公エウシェン王子によって晴らされた。 1992年に国立美術館から出版された本でカール・ラーションは絵画が最終的に受け入れ拒否されるに至った最も直接かつ自然な原因が、時間が絵画を時代遅れのものになったということが真相であると主張している。 長くかかった議論のせいで、絵画は過去の遺物になってしまい、新しい世紀の近代主義の理念に応ずることができなかった。 1915年6月、最終版が予定されていた場所に展示された。次の年には、リリエバルク美術館の最初の展覧会が、カール・ラーション、ブルーノ・リリエフォッシュおよびアンデシュ・ソーンのために開かれたため、絵画は美術館で公開された。ラーションは他に150点あまりの作品を出展しており、また、これ以外の個展や展覧会でも多くの観客を集めた。しかしラーションのこの絵画への思いは諦められるものではなかった。1919年1月、亡くなる2日前に、ラーションは自宅のアトリエに絵画を広げて、やがてこの絵が展示されることを期待し展示の際の注意点を書き残している。 絵画はその後、1925年から1933年の間、国立美術館において再び試験的に展示された。1942年には、ルンドのSketches美術館に保管された。そしてラーションの死後も約40年間展示されていた。 国立美術館が手がけた書籍によると、論争は、カール・ラーションが備えていた彼個人の名声と理想に関係したが、彼と同時代の人々はこの理想にますます冷淡になった。ラーションの回顧録『Jag』は彼の死後に出版されたが、その中で彼は、自身の最大の業績となると考えた作品が展示を許可されなかったことについての苦悩と失望を告白している。 「『冬至の生贄』の運命が私を破壊した! この私を暗い怒りに追いやった。 しかし、起きたことが結局は、多分最良のことであっただろう。 なぜなら私の直観力が教えてくれるのだ――もう一度!――この絵は欠点を抱えつつも、いつか来るその日、私が去った時、すばらしい展示場所を得て栄誉を与えられるだろう」 ラーションが絵画と自分自身を同定し始めたことは明白であった。彼がまず反対意見の向こう側に陰謀や悪意を見たこと、さらに、彼が生贄として捧げられた王と自分自身を同定したことは十分考えられる。この同定は、彼が1916年に描いた自画像の中で誰の目にも明らかとなった。そこには彼自身がドーマルディ王の最終スケッチを背景にして描かれていたのである(参考画像)。その絵は彼が暮らしたスンドボーンの教会に寄付された。
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