暦・日付
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 10:08 UTC 版)
太陰暦と太陽暦 世界基準の存在しない時代ゆえ、通常、古記録は国・地域ごとに異なる個別の年号でもって記されている。 日本・朝鮮・中国の場合、元号の成立以前の時代には、時の為政者(※少なくとも改暦・改元の権能者)の治世の何年目かという記述法が採用され、元号の成立以降の時代には、その元号における何年目かという記述法が採用されている。当然、日付は当時の暦である太陰暦(今でいう旧暦)で記されている。当時の太陰暦と現在広く用いられている太陽暦の日付(旧暦と新暦の日付)は根本的に違うため、必ずズレが生じる。ゆえに、和暦の場合など、「□○年○月○日(西暦換算:△年△月△日)」(※□は元号、○は和暦〈太陰暦〉の年月日、△は西暦〈太陽暦〉の年月日)という記述法が、本来は必ずなされるべきである。実際には「□○年(△年)○月○日」「□○年(△年)△月△日」「□○年(△年)○月」などという記述法が世に蔓延っているが、これらは「正確でない」のではなく、誤解や新たな誤記の原因となる間違った記述法である。 年や月の端境期に近い日付を別の暦の日付に換算すると、月なら1〜2か月、年でも1年、改まる(ズレる)場合が多い。例えば、慶長地震の発生した日付は慶長9年12月16日であるが、西暦換算すると(慶長9年11月11日がグレゴリオ暦の1604年12月31日に相当するので)1604年ではなく年を跨いだ1605年の2月3日となる。 地震と改元 元号のある国では、目を見張る瑞相や治世を危うくするほど禍々しい出来事があった場合、瑞相ならあやからんがため、凶事ならやり過ごす意図などをもって、しばしば改元が行われた。地震は、ときに瑞相(※厳密には仏教圏に限る概念)、ときに凶事の最たるものと捉えられ、改元の理由になった。一つの例として、安政伊賀地震(伊賀上野地震)・安政東海地震・安政南海地震は嘉永7年に発生したが、世を安んじるべく「安政」へ改元されたことで、現在では改元後の元号を冠しているが、地震発生当時の記録者にとっては当然ながら「嘉永」の世であり、「嘉永七年」の出来事として記録されている。嘉永年間の出来事に「安政」を冠する整合性については、明治改元の際にその年(慶応4年)の正月(旧暦1月1日)まで遡ったうえでの改元として処理された例に倣い、正しいと解釈されている。 誤記 歴史記録には日付の誤記や誤写が少なくない。例えば、寛永4年10月4日(西暦換算:1627年11月11日)では、『東宇和郡沿革史』に「地震のため道後温泉埋没す」、『旧記録抄』に伊那谷で「大地震、所々に潰家があった」と記録され、さらに寛永4年11月23日(西暦換算:1627年12月30日)には『泰平年表』に「富士山噴火、江戸降灰四日、其色黒」と記録されているが、この記録を掲載している『大日本地震史料』にそれぞれ武者金吉と大森房吉が「寳永四年(宝永4年、1707年)の誤写なるべし」と註釈を付けている。このような誤記は歴史地震だけではなく、昭和南海地震の際に、地震原簿への重複記載により実際には発生していない前震が記載された例もある。地震学者が資料を編纂している際の誤りによっても生じている。 西暦表記の不統一 日本では発生年月日の西暦表記換算はグレゴリオ暦で一本化されてきた。一方、西洋で使用されていた暦は1582年10月4日以前はユリウス暦であった。グレゴリオ暦とユリウス暦では16世紀末頃では最大10日の差が存在し、日本の歴史地震は慣例上グレゴリオ暦表記であったため、アメリカ海洋大気庁 (NOAA) の地震カタログは1582年以前はユリウス暦を基本としているのに対し、日本の地震についてはグレゴリオ暦(先発グレゴリオ暦)と統一されていない。 当時の西洋社会の歴史の上で実際に使われた暦に換算するのが望ましいとの考えから、1582年以前はユリウス暦表記が望ましいとする意見がある一方で、1582年以前はユリウス暦は欧州など一地方で使用されていたのみであり世界共通であったとは言えず、太陽にリファーされたグレゴリオ暦の方が便利ではないかとの意見もある。歴史地震研究会では、1582年以前の地震の発生日時はユリウス暦表記を推奨している。 「日本の歴史地震の西暦換算」も参照
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