普天間第二小学校の移設断念
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「普天間基地移設問題」の記事における「普天間第二小学校の移設断念」の解説
基地に隣接して設けられた普天間小学校は開校以来、生徒、職員、父兄等の関係者は事故の危険性について危機感を抱かされてきた。移転方針の最初の表明は、宜野湾市の広報にて1980年9月になされた(当時の市長は安次富盛信で保守市政であった)。その後の安次富市政の毎年の施政方針演説にて移転方針が盛り込まれた一方、1983年7月21日付および1984年7月23日付の市長名の防衛施設庁長官宛の公文書で用地費の補助金要請が為された。市は、キャンプ・フォスター内FAC6044の敷地に移転を希望し、1982年の第96国会にて那覇防衛施設局はその場所から500mほど離れた敷地を提示したが、小渡三郎は貝塚や断崖があることを理由に否定的であり、この時点では未確定の旨も述べられた。その後、1987年の第109国会 にて玉城栄一の質問で、用地費に関して法制度上補助金の対象にならないことが明らかにされ、政府委員側は義務教育施設整備事業債の利用を提示している。なお、この間、1985年8月には市長が革新系の桃原正賢に交代した。 当時の『市報ぎのわん』では、小学校移転問題について、移転に反対する運動に関する記事は存在しない。一方、当小学校のPTA総会では、1980年から1991年にかけての毎年、移転を求める決議が為された。 最終的に、移転せず現在地での改築の方針とされた経緯として宜野湾市は、前述の用地費補助問題のほか下記の理由を挙げている。 水漏れ、コンクリート破片の落下など学校施設の老朽化が進み、子供たちが危険な状態 移転計画では十年以上かかる 世界情勢の緊張緩和で将来、普天間基地の返還のきざしがある 復帰特別措置制度が二年後に見直され、学校補助費が現行よりも低くなるため、早急に整備にかかる必要がある この方針が示された直後の第205回宜野湾市議会定例会において、同小学校移転問題に関する議論につき、市民運動(反対運動)を扱った発言は議事録に存在しない。 1992年に学校から500mの場所で離陸に失敗し横転事故が発生した際には、学校関係者等は危機感に包まれたという。その後1996年に基地返還の方針が明らかになった際にはPTA会長が「この場所に新校舎を建設してよかった」「老朽化した校舎に押しつぶされるか、軍用機墜落の危険性にさらされるか、私たちには二つの選択肢しかなかった」とのコメントし、移転の選択肢には言及しなかった。その後、野党各派は移転要請を継続し、現在地での移転策に決定した市政を批判している。なお、鳩山は総理時代の2010年5月に対話集会参加のため本校を訪れ、現地住民の抗議を受けている。 『産経新聞』によれば、きっかけは1982年、基地内で米軍機の不時着事故があったことであり、米軍、防衛施設庁と掛け合った結果「代替地と予算を確保した」とされている。しかし、一部市民団体より「移転は基地の固定化につながる」「命をはってでも反対する」などと反対され頓挫したと言う。その後1988年頃に上述のように校舎の老朽化が問題となった際は、市民団体は現地での建替えを要求した。産経新聞によれば、宜野湾市関係者等は「市民団体などは基地反対運動をするために小学校を盾にし、子供たちを人質にした」「反対派の一部には、米軍の存在意義や県民の思いを無視し、普天間飛行場と子供たちを反米のイデオロギー闘争に利用している可能性も否定できない」と述べているという。本件については田原総一朗も批判している。なお、本件は『正論』にて追跡取材が掲載され、後述の軍用地主の姿勢などについても批判的な記述がなされている。
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