普天間基地移設問題とその性状
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 04:04 UTC 版)
「稲嶺惠一」の記事における「普天間基地移設問題とその性状」の解説
防衛官僚の守屋武昌は普天間基地移設問題の早期決着を目指していたが、2005年の日米合意2日後に反対を表明した稲嶺知事(当時)から「守屋さん、沖縄では大きな仕事は20年かかるんですよ。新石垣空港だってそうでしょう。今回はまだ7年です。たいしたことないじゃないですか」と言われ、唖然としたという。 これについて稲嶺は「県民と中央では(基地に対する)思いにとても格差があり、これは埋められないほど大きなものだ。今まで沖縄では、6,7割のマジョリティが県外移設を求め続けてきているから、その中でできることは限界がある。それをわかってもらわないと、最後までわからなかったか、わかろうとしなかったか、そこが大きなポイントだと思う。選挙もあるし、そもそも移設が無理なんだ」と当時を振り返って反論している。 しかし守屋は「辺野古沖の基地を、橋本総理は撤去可能な案だったが、稲嶺知事は一方的に県民の財産とする軍民共用空港建設を公約していた。移設が無理なら、なぜ県民と政府にきちんと説明しないのか。(稲嶺の)在任中、場所と工法で最初の4年間使った。2期目では県の事業主体である民工部分の環境影響評価を法律上できないと言い、この交渉は後半の任期のうち、1年8か月使って拒否してきた。そのため政府が行うことになり、実施する際には環境影響評価の方法書を県に渡さなくてはいけないのだが、県はそれを受け取らない。このような先延ばしをされてる間に、沖国大米軍ヘリ墜落事件が起きた。この時、稲嶺知事は『こんな危険な飛行場を放置しているアメリカが悪い。アメリカに即時撤去を求める』と発言した。(稲嶺は)この問題を解決する為に知事になり、それを公約として掲げていたのではないか。6年も過ぎて、一切移設を進める手続きをしてこなかった」と稲嶺の二枚舌を批判している。
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