昭和期以降の大学受験予備校
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「予備校」の記事における「昭和期以降の大学受験予備校」の解説
昭和初期になると今度は不景気な時代には入試競争は深刻な社会問題と化した。この時期には高等教育機関を卒業しても就職先がないという深刻な事態を起こしていたという。就職難は進学にも影響を及ぼし、旧制中学校卒業生が旧制高等学校の門に殺到するようになっていったという。 このため1927年(昭和2年)には早数学院と東京高等数学塾、1929年(昭和4年)には文理高等予備校、1931年(昭和6年)には東京予備校、1932年(昭和7年)には新宿高等予備校、1933年(昭和8年)には愛知県で河合英学塾、現:河合塾と、相次いで誕生し、戦前までその数は100校近くになっていた。 第二次世界大戦後の昭和24年新制大学の制度が発足して、それまでの予備校は新制大学入試のために受験生に準備教育を行う場としての方向を確立することになり、高度経済成長期頃から大学受験の大衆化により、数年のうちに予備校は急速に発展するようになった。 1957年には代々木ゼミナールが開校している。他に歴史の古いものとして前述の駿台予備学校、河合塾など、1950年代の中盤から後半にかけて、三大予備校などの大手予備校が急成長する下地が形成された。 1960年代から1970年代にかけて、都立学校群制度や共通一次試験が成立したことが追い風となり、予備校は成長期を迎える。祐本寿男は、成長期を支えた予備校として、冷暖房が完備され有名講師を起用するなどの仕組みを持った代々木ゼミナールを挙げている。 1970年代、1980年代、1990年代前半のいわゆる受験バブルの時代においては、現役での進学のほかに高校浪人、大学浪人等で高校進学や大学進学することも一般化し(「一浪」で「人並み(ひとなみ)」などと俗に言われた)、独自の予備校文化も形成されるに至った[要出典]。 1990年代後半に入り、バブル崩壊・少子化の進展につれて浪人生の数は減少し、浪人生を中心とした本科から現役生を対象とするコースへと重点を置く傾向にあり、推薦入試やAO入試の対策、それに伴う高校の内申点・定期テスト対策などのニーズも高まった。ただし、依然として難関校の一般入試は高倍率であり、大手予備校は規模を縮小しながら存続するとされる[要出典]。 校種としては専修学校・各種学校のほか、株式会社による設置のものもある(東進ハイスクールや四谷学院など)。予備校生が鉄道などの公共交通機関で通学する際は、予備校が学校登録されている場合に限り通学定期券を利用することができる。なお、株式会社設置のものについては学校登録されていないため不可能である。また学校登録のものであっても、本科生は利用できるが単科生は利用できないといった制約もある。一般的に国立・公立の予備校は設置されていないが、過去には多くの地域で公立高校が補習科として浪人生用の講座・校舎を有していた。福岡県では補習科から独立した県立高校併設型の予備校が多く存在していたが、2016年春に最後の一校(福高研修学園)が閉校になった。鳥取県では高等学校の専攻科が大学進学対策を行っていたが2012年度末で、二つの高校に残っていた専攻科が廃止となった。長崎県には県の外郭団体が運営する予備校が2010年度末まであった。 予備校の業界団体として「全国予備学校協議会」がある。これは設置者が学校法人である予備校のみを会員とするが、代々木ゼミナールや北九州予備校のように未加盟、もしくは加盟後に脱退したものもある。学習塾と異なり、一定の規模の在学者数や教員数を有し、単なる教室だけではなくて校舎を有している場合が多い。 コースとしては以下に大別される。 中卒生コース - 中学卒業後に翌年の合格を目指す浪人生のためのコース。「高校受験科」などと呼ばれる。なお既述のとおり、学校登録の予備校については通学定期券を購入することができる(本科生の場合)。 高卒生コース - 高校卒業後に翌年の合格を目指す浪人生のためのコース。「大学受験科」などと呼ばれる。なお既述のとおり、学校登録の予備校については通学定期券を購入することができる(本科生の場合)。予備校によっては学生寮を設けている所もあり、一部には全寮制の所も存在する。 現役生コース - 現役合格を目指す高校生のためのコース。上記の高卒生コースと併設されているもののほか、市進予備校などの現役生専用予備校も存在する。
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