映画館の終焉と日立市への寄贈
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「共楽館」の記事における「映画館の終焉と日立市への寄贈」の解説
20世紀初頭、大衆文化の発達とともに建設ラッシュを迎えた全国各地の劇場の多くは、共楽館とよく似た経緯を辿っていた。戦後まもなくは演劇の復活に伴い地方の劇場にも来演し、共楽館のような大規模な劇場はNHKラジオの収録場所としてもしばしば活用された。こうして戦後まもなく、劇場は賑わいを取り戻していた。やがて黄金期を迎えていた映画上映が劇場を支えるようになった。劇場での映画上映はどうしても専門の映画館と比べて設備的に劣るため、必ずしも歓迎されたわけではなかったが、当時の映画に対する高い需要が劇場での映画上映を可能としていた。映画は役者の世話などが不要であり、諸経費が芝居よりも安価で済むため、映画上映を歓迎する劇場経営者も少なくなく、多くの劇場が映画館に改装された。しかし1960年代に入るとテレビの普及に伴い頼みの映画も衰退を見せ始め、劇場は苦境に追い込まれていくことになる。 テレビは1950年代から60年代にかけて広く普及していった。日立鉱山側もテレビの普及に対応して、職員の福利厚生施設の一環として1961年(昭和36年)頃、良好な状態でテレビの視聴が可能となるような施設整備を行った。テレビが普及していく中、日立鉱山従業員、家族の娯楽はテレビが中心となっていき、映画の比重は低下していった。その結果共楽館の入場者は減少し、観客も社外の人の比率が高くなっていき、鉱山の福利厚生施設としての存在意義が問われるようになってきた。また共楽館の人件費、映画フィルム代など共楽館の運営にかかる諸費用は経済発展に伴う物価上昇の中、高騰していた。しかも日立鉱山は1962年(昭和37年)には貿易自由化などの影響で希望退職者の募集、52歳の繰り上げ停年といった大規模な事業合理化を断行していて、その後、鉱山従業員数は減少していく。この時の事業合理化では、これまで日立鉱山の特徴とされてきた手厚い福利厚生施策も見直しの対象となり、日用品を中心とする生活用品の供給所の経営を別会社に移行し、無料であった社宅の有料化などの措置が取られていた。映画の衰退に伴う利用者減、会社負担の運営費の高騰、日立鉱山の経営合理化という現実を前に、共楽館の運営方式にもメスが入るのはやむを得ないことであった。 まず行われたのが映画上映時間の見直しであった。1962年(昭和37年)3月、会社と組合側との協議の結果、これまで共楽館は火曜日のみ休館で、金、土、日、月は邦画、水、木は洋画を昼と夜の2回放映していたものを、休館は火曜日のみという点は変更されなかったが、日曜日以外は夜のみの1日1回の上映となった。しかし観客の減少は止まらず、1963年(昭和38年)10月にはこれまで大人30円、子ども20円であった料金が大人50円、子ども30円に値上げされた上に、映画の上映も土曜日の夜、日曜日の昼と夜のみと大幅に少なくなった。 その後も映画の衰退に伴う共楽館の観客減少には歯止めがかからず、観客が1人だけということもあったという。結局、共楽館、本山劇場、諏訪会館という日立鉱山直営施設での映画上映は、1965年(昭和40年)1月末をもって終了することになった。映画館としての使用が終了した後も、1965年(昭和40年)4月に市川昆監督の『東京オリンピック』の上映が行われ、日立鉱山の社内行事にも使用されたが、日立鉱山では今後の共楽館の建物の利用方法について検討が進められていった。その中で他の事業体への貸し出しや運営委託も検討されたが、結局、当時築50年でまだ使用が可能であり、日立鉱山の歴史を語る建造物として何とかして残したいという日立鉱山側の意向と、当時日立市営の体育館が無く、必要に応じて日立製作所の体育館を間借りしていた日立市の意向が合致し、1967年(昭和42年)9月28日、共楽館は日立市に寄贈された。
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