映画館勤務から監督になったラッキー・ボーイとは? わかりやすく解説

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映画館勤務から監督になったラッキー・ボーイ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/07 02:53 UTC 版)

志波西果」の記事における「映画館勤務から監督になったラッキー・ボーイ」の解説

1900年明治33年12月17日佐賀県佐賀市城内町現在の市城内)に生まれる。旧制佐賀県立佐賀中学校現在の佐賀県立佐賀西高等学校)を卒業後、1922年大正11年)、東京国際活映入社同社常設館勤務する同年志波書いたオリジナルストーリー同社巣鴨撮影所採用され細山喜代松監督によって映画化され、『光の岐に』として同年9月1日公開された。 1923年大正12年5月22歳のときに、オリジナル脚本彼の山越えて』がマキノ映画製作所採用され衣笠貞之助監督によって映画化され脚本家としてデビューするとともに同社等持院撮影所助監督として入社する同作6月15日公開された。衣笠のほか金森万象オリジナル脚本提供し助監督として働くうちに、1年足らずのうちに監督昇進第1作岡田時彦主演、自らのオリジナル脚本による『懐かしき母』で、同作1924年大正13年3月4日公開された。監督デビュー後も衣笠と金シナリオ提供し続けたが、同年7月マキノ東亜キネマとの合併反対して退社する同社俳優岡田時彦高木新平とともに台湾独立プロダクション設立しよう企てるが、失敗高木東亜キネマ等持院撮影所おとなしく残留志波岡田とともに帝国キネマ芦屋撮影所入社した帝キネ芦屋では、入社早々にオリジナル脚本岡田時彦主演作『幸福』を撮った同様にマキノから芦屋撮影所移ってきた森静子横山運平関操出演した移籍第2作怒髪』をおなじキャスト撮ったあたりで、社内内紛勃発1925年大正14年1月14日芦屋撮影所では全従業員が総退社石井中心にアシヤ映画製作所」を設立した志波もこの流れ参加、4本の映画撮ったところで本家帝国キネマ内での内紛収まり新体制築かれアシヤ映画製作所メンバーはほぼ全員が「帝国キネマ芦屋撮影所」に原職復帰できた。

※この「映画館勤務から監督になったラッキー・ボーイ」の解説は、「志波西果」の解説の一部です。
「映画館勤務から監督になったラッキー・ボーイ」を含む「志波西果」の記事については、「志波西果」の概要を参照ください。

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