映画化の背景
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「祇園祭 (1968年の映画)」の記事における「映画化の背景」の解説
1950年、マルクス主義に基づく「新しい歴史学」を市民に啓蒙する活動の一環として、立命館大学教授だった林屋辰三郎を中心に紙芝居『祇園祭』が作成された。ストーリーは、応仁の乱後、京都の町衆たちが室町幕府権力に抗して自治体制を築き、その象徴としての「祇園祭」を復興するというものであり、林屋の「町衆論」をドラマ化したものであった。民主主義科学者協会京都支部歴史部会に参加していた学生らによって、1952年に大型の紙芝居が完成し、国民的歴史学運動として紙芝居興行が各地で打たれた。民衆の抵抗ぶりを紙芝居に仕立て、それを農民や労働者に見せて啓蒙するのが当時の大学生による歴史学研究会の小さな流行だった。その後、紙芝居『祇園祭』は書籍化され、京都だけでなく国内に広く知られるようになった。また、1958年頃にこの紙芝居が劇になって舞台化され、京都の円山公園で上演されたこともあり、その脚本を初めに大島渚が書き、さらに加藤泰が書き直したという。 この紙芝居に当時から関心を持っていた映画監督の伊藤大輔は、1961年に、林屋の友人でもあり日本共産党の京都市議会議員で作家でもあった西口克己が小説『祇園祭』を執筆出版すると、これを読んですぐに映画化を企画した。錦之助の主演作ということで、いったんは東映で企画が通り脚本の準備までしたものの、結局予算が下りず中止された。 1967年5月に芸能ライターの竹中労が『祇園祭』の映画化を再企画し、西口克己を通じて京都府に持ちこみ、7月に革新系の蜷川虎三知事のもと京都府が府政百年記念事業の一つとして全面的に支援することが決まり、製作が具体化した。竹中は五社協定の打破とブロック・ブッキングによる配給体制の突き崩しを目指す構想を立て、大阪と東京の労音(勤労者音楽協議会)や東映俳優労働組合とその支援者の協力を得て、映画の製作・上映形態の抜本的変革を試みようとしたが、挫折した。また、竹中は、映画『祇園祭』のジェネラル・プロデューサーとして、まず東映京都撮影所長(当時)・岡田茂を候補に上げ、交渉したが、断られ、次に元日活専務の江守清樹郎に依頼したが、断られたという。結局、企画・製作の中心にいた竹中労は、原作者の西口克己や京都府議会の有力共産党議員たちと対立し、1967年10月プロデューサーの座を引きずり降ろされ、志半ばで退任した。 その後、製作は半年間中断されたが、竹中労退任の前後にも、八尋不二から加藤泰さらに鈴木尚之と清水邦夫への脚本家の交代、当初からの製作者の一人であった小川三喜雄(錦之介の兄で東映時代は小川貴也)の退任、共同監督の加藤泰の降板などがあり、1968年8月、脚本が未完成のまま見切り発車でクランクインする事態を招き、監督の伊藤大輔が愛弟子の山内鉄也に交代して、映画『祇園祭』が完成した。 なお、日本中世史の研究家である河内将芳は、祇園祭に立ちふさがったのは幕府でなく延暦寺の大衆であり、侍と町衆の対立としてのみ描いたストーリーに対しては疑問を呈している。
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