映画化までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 05:27 UTC 版)
「風の谷のナウシカ (映画)」の記事における「映画化までの経緯」の解説
「風の谷のナウシカ#執筆の経緯」も参照 宮崎はアニメージュ編集部の依頼を受け、同誌1982年2月号から『風の谷のナウシカ』の連載を開始したが、11月にテレコム・アニメーションフィルムを退社してフリーとなり、一時『ナウシカ』の漫画連載が唯一の仕事となる。この状況を知った尾形英夫編集長から、同誌主催のイベント「アニメグランプリ」で上映する10分程の短編としてアニメ化する事を提案され、主人公ナウシカの幼少期を描くプランを提示したが、結局実現しなかった。次にOVAの企画があがり、70分程度ならばと受諾したが、採算が合わないという理由でこの件も消滅した。最後に長編アニメ映画案が上がり、尾形編集長が徳間康快徳間書店社長から共同出資するパートナー企業をつけることを条件に承諾を得た。 当時、徳間グループ傘下には映画会社の大映があったが、アニメへの理解とノウハウがなかったため製作に関わらず、徳間書店自らが製作を行っている。条件だった共同出資社は、『テレビランド』誌でつきあいのあったバンダイが浮上するも出資は実現せず、広告代理店大手の博報堂の近藤道生社長と徳間康快がトップ会談で出資が決定。博報堂には宮崎の弟が勤めていたことも幸いし、映画化と全国ロードショー公開が実現することになった。 配給する東映にとっては当初マイナー作品の扱いで宣伝に熱が入ってなかったが、徳間康快が親しかった岡田茂社長に「もっと力を入れて欲しい」と頼み、岡田が現場に尻を叩いた。公開前には徳間康快指揮の下、徳間ジャパンなども含めたグループ総動員で宣伝活動がなされた。 宮崎はアニメーションにならない世界を描くつもりで『ナウシカ』を執筆しており、実際に映画化が決まると困惑したという。それでも「アニメーションをやるには『ナウシカ』しかないって言うんだったらやってみよう」という思いで制作作業に取り組んだ。
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