日本語における言文一致とは? わかりやすく解説

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日本語における言文一致

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/25 07:21 UTC 版)

言文一致」の記事における「日本語における言文一致」の解説

日本語古典的な文体である文語は主に平安時代まで完成した中世以降次第話し言葉との乖離大きくなっていった明治時代には、文学者の中から改革運動言文一致運動)が起こった言文一致小説嚆矢は、坪内逍遥刺激受けた二葉亭四迷の『浮雲』などである。二葉亭が『浮雲』(1887年)を書く際には、初代円朝師匠落語速記法により筆記した落語家初代三遊亭圓朝落語口演筆記参考にしたという。 また、ツルゲーネフなどロシア文学作品翻訳した文体既存文語からの離脱試みである。 当時二葉亭以外にも、多く作家言文一致の新文体模索したその中でも、山田美妙における「です・ます」調の試みは、もうひとつ日本語表現可能性として、小説言語主流にはならなかったものの、後世大きな影響与えた若松賤子が「小公子」の翻訳試みた「ありませんかった」のような文体当時注目浴びたが、これは受け継ぐものが現れなかった。 しかし、そのころはまだ文語文作品多く書かれている和歌の塾に通い古典教養持っていた樋口一葉古文呼吸つかった雅文体で「にごりえ」「たけくらべ」などの作品書いている。翻訳言文一致試みた森鷗外も、「舞姫」や「即興詩人」では文語もどしている。評論分野では北村透谷幸徳秋水は、漢文書き下し文体使って論文書いていた。その点では、言文一致運動がすぐに時代主流になったわけではなかった。 このような文体への挑戦文学の分野作家たちだけがしていたのではなく当時新聞や雑誌記事などでも並行的に行なわれていた。特に従軍記者による戦地レポートや、速記による裁判の傍聴記録などで、積極的に言文一致の新文体試みられていた。その結果明治末になるとそれらは書き言葉として次第確立し一般文章にも大きな影響与えようになった自然主義文学運動も、その普及一役買った大正末期には言文一致運動完成した考えられ、「口語体」と改まった。しかし、戦時色濃くなるにつれ大本営発表などで文語調が一時的に再び多く登場した法律分野では、21世紀民法現代語化が始まるまで文語体多く残っていた。 「日本語#文語文と口語文」も参照 1885年2月25日の『東京学士院雑誌』に「文章論を読む」を発表し神田孝平が、言文一致説く言文一致の語の初見か。 1886年3月21日物集高見が『言文一致』を刊行最初言文一致論の著述か。 1887年7月山田美妙が『以良都女』に「風琴調一節」を連載9月まで。未完)。言文一致体小説1888年12月20日黒田太久馬・福西四郎らが、言語取調所を設立文体一致言文一致普通文体の制定目標とする。のち1890年10月解体1900年6月18日、『教科適用 幼年唱歌初編上巻 納所弁次郎田村虎蔵共編1902年9月30日まで4編、10冊)「桃太郎」金太郎」など言文一致唱歌はじまり

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