日本・アジア太平洋における移行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 19:56 UTC 版)
「トーキー」の記事における「日本・アジア太平洋における移行」の解説
1920年代から1930年代の日本は世界でも有数の映画製作本数で、アメリカ合衆国に迫る勢いだった。トーキーの製作はかなり早かったが、映画全体がトーキーに完全に移行するのに要した期間は西洋よりも長かった。日本初のトーキーは小山内薫の『黎明』(1927年)でド・フォレストのフォノフィルム方式を使っていたが、技術的問題から公開には至らなかったともいわれている。サウンド・オン・フィルム方式のミナ・トーキー(=フォノフィルム)を使い、日活は1929年に2本の部分トーキー『大尉の娘』と『藤原義江のふるさと』(監督は溝口健二)を製作した。次いで松竹は1931年に初の国産サウンド・オン・フィルム方式(土橋式トーキー)での製作をおこなった。その間に2年の月日が流れているが、当時の日本の映画はまだ8割が無声映画だった。当時の日本映画界をリードしていた2人の監督、成瀬巳喜男と小津安二郎がトーキーを製作したのはそれぞれ1935年と1936年のことである。1938年になっても日本では3分の1の映画が無声映画だった。 日本で無声映画の人気が持続した背景には活動弁士の存在がある。活動弁士は無声映画の上映中にその内容を語りで解説する職業である。黒澤明は後に活動弁士について、「単に映画の筋を語るだけでなく、様々な声色で感情を表現し、効果音を発し、画面上の光景から喚起される説明を加えた(中略)人気のある活弁士は自身がスターであり、贔屓の活弁士に会うにはその劇場に行く必要があった」と語っている。映画史の専門家 Mariann Lewinsky は次のように述べている。 西洋と日本における無声映画の終焉は自然にもたらされたものではなく、業界と市場の要請によるものだった。(中略)無声映画は非常に楽しく、完成された形態だった。特に日本では活動弁士が台詞と解説を加えていたため、それで全く問題はなかった。発声映画は単に経済的だというだけで何が優れていたわけでもない。というのも、映画館側が演奏をする者や活弁士に賃金を支払わずに済むからである。特に人気の活弁士はそれに見合った賃金を受け取っていた。 同時に、活動弁士という職業があったおかげで、映画会社はトーキーへの設備投資をゆっくり行うことができ、製作スタッフも新技術に慣れる期間を十分にとることができた。 中国では1930年に初の長編トーキー『歌女紅牡丹』が公開された(北京語)。 オーストラリアでは1930年2月に初のトーキー The Devil's Playground が完成していたが、5月に開催された Commonwealth Film Contest で受賞した Fellers が先に公開された。 インドでは1930年9月、1928年の無声長編映画 Madhuri から抜粋したシーンにインドのスターSulochanaの歌声を追加した短編が公開されたのが最初である。インド初の長編トーキーは翌年にアルデシール・イラニ監督が製作したヒンディー語主体の Alam Ara で、他にタミル語主体の Kalidas も同年に公開された。同じ1931年にはベンガル語の Jamai Sasthi やテルグ語の Bhakta Prahlada も公開されている。1932年にはマラーティー語初の映画 Ayodhyecha Raja が公開された(完成は Sant Tukaram の方が早い)。同年、グジャラート語の初のトーキー Narsimha Mehta、タミル語のトーキー Kalava も公開されている。翌1933年、アルデシール・イラニは初のペルシア語のトーキー Dukhtar-e-loor を製作した。 同じく1933年、香港で広東語初のトーキー『傻仔洞房』と『良心』が製作された。香港では2年間で映画業界が完全にトーキーに転換した。 朝鮮半島には日本の活動弁士と同様の職業「弁士(변사)」 pyonsa(または byun-sa)が存在した。映画産業があった国としてはトーキーの製作は最も遅く、1935年のことだった。『春香傳』(춘향전)は伝統芸能パンソリの物語「春香伝」を題材にしたもので、非常に人気のある題材であり、2009年までに15回も映画化されている。
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