日本の為替の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 08:55 UTC 版)
日本は、江戸時代の大坂を中心に為替(手形)による取引が発達して、当時の世界ではもっとも優れた送金システムを築き上げた。 日本の「かわせ」の語は中世、「交わす」(交換する)の連用形「かわし」と呼ばれていたものが変化したものである。日本で「為替」という言葉が生まれたのは、鎌倉時代である。この時代、鎌倉で俸給をもらう下級役人が現れており、俸給として鎌倉に入って来る年貢を先取りする権利が与えられた。その際に権利証書として「為替」が発行されたのである。あるいは、鎌倉番役や京都大番役を勤める中小の御家人が、地元の所領からそれぞれが金銭や米を持ち込まなくとも、大口の荘園や有力御家人の年貢の運送に便乗する形で、鎌倉や京都で金銭や米を受け取るシステムとして、為替の仕組みが生まれている。つまりこの時代の為替は、金銭のみならず米その他の物品の授受にも用いられていたのである。 いわゆる金銭のみの授受としての、日本で最古の為替の仕組みは室町時代の大和国吉野で多額の金銭を持って山道を行くリスクを避けるために考えられ、寛永年間に江戸幕府の公認を受けた制度であるとされている。吉野には大坂などの周辺地域の商人も出入しており、大坂商人の為替はこれを参照したとする説もある。また、鎌倉時代以来存在した割符との関係も指摘されている。 江戸時代の日本では、政治・消費都市である江戸と経済的中心である大坂(更に商工業が発展した都・京都を加える場合もある)の間で商品の流通が盛んになった。それは多額かつ恒常的な貨幣流通の需要を生じさせるとともに、支払手段としての貨幣機能の発展、信用取引の発展を促して、両替商あるいは大都市それぞれに店舗を持つ大商人を仲介とした為替取引を発達させた。 例えば、江戸の住人・「甲」が金100両を大坂在住の「乙」に送金する場合、江戸の両替商「丙」に100両を預けて、「丙」は代わりに為替手形と置手形の2通を作成して「甲」に渡す。「甲」は為替手形のみを「乙」に渡して、置手形は保管する。「乙」は為替手形の裏側に裏書を行った後に「丙」によって指定された大坂の「丁」(「丙」の支店あるいは取引先である事が多い)に為替手形を渡して金100両を受け取る。その後、「丁」は「丙」に返送して、「乙」の裏書を証拠として「甲」から置手形を取り戻した。この他にも両替商間で予め一定額限度で相手側からの支払要請の受理を保証する事を約束しあった空置手形や、予め両替商に預け入れている事を示す預金証書である預り手形や預金者が預金先である両替商に対して振り出す振手形などが存在し、最終的には「丙」と「丁」の間における相互の手形の差引及び相殺によって処理した。 特に江戸・大坂間では消費都市である江戸の商人達からの支払のための手形と商業都市である大坂からの江戸幕府の大坂城御金蔵や諸藩の蔵屋敷における米や物産の売却代金を幕府中枢及び諸藩の江戸屋敷に御用両替商を通じて送金するための手形(幕府ではこれを「公金(江戸)為替」と称した)が行き交っており、大坂の両替商は幕府や諸藩から依頼された送金用の金銭で江戸から流れてきた江戸からの支払用の手形(下為替)を買い入れて(国内為替市場の形成)、江戸の両替商に送り、江戸の両替商はそれを江戸の商人達から取り立ててその代金を大坂の両替商に代わって幕府や諸藩に納付していた。また商人間でも、蔵屋敷の保管証明書(蔵預り切手)が売買され、実質的な為替として流通していた。 こうした手形のやり取りが両替商達の信用力を高めて行くとともに、集められた資金は投資や貸付資金などにも流用されて、日本の近代資本主義の成立に欠かせない信用機関の発展と都市商業資本の集積に貢献したとする見方が強い。前述の公金為替は全くの無報酬であったが、商人が公金を預かっている間は自由に資金として運用できたため、運転資金の融資を無利息で受けているに等しかった。それだけに江戸幕府崩壊と銀目廃止、廃藩置県に伴う、経済構造の変化は為替に対する信用不安を生み出す可能性が出てきた。このため、明治政府は遅々として進まない商法典制定の中でいち早く手形・為替関連法(為替手形約束手形条例)を整備するとともに、国立銀行の設置などの金融政策を取っていく事になった。
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