新宮城跡附水野家墓所とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 文化 > 国指定文化財等データベース > 新宮城跡附水野家墓所の意味・解説 

新宮城跡附水野家墓所

名称: 新宮城跡附水野家墓所
ふりがな しんぐうじょうあとつけたりみずのけぼしょ
種別 史跡
種別2:
都道府県 和歌山県
市区町村 新宮市新宮
管理団体
指定年月日 2003.08.27(平成15.08.27)
指定基準 史2,史7
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 新宮城跡は、丹鶴城跡とも呼ばれ大峰山系に源を発し太平洋流れ込む熊野川河口沿い南岸標高約60mの独立丘陵上に位置する
 城跡は、丘陵東部本丸位置し、その西南端に天守台がある。本丸に立つと太平洋の沖まで見渡すことができ、沖見城とも呼ばれていた。本丸西方には鐘の丸、その北にノ丸が配されている。丸には、西方につづらに降りていく大手道がつながっているが、北側にも大規模な船着場や炭小屋群のあるノ手郭へ降りる石階段が取付いている。また、本丸の北には出丸があり、船着場熊野川河口などを見渡せる。
  城跡一帯は、熊野速玉大社の東に位置し平安時代後期には熊野速玉大社神宮寺的な存在であった丹鶴山東仙寺が所在しとされる
  戦国期には在地豪族堀内氏の所領となるが、関ケ原の戦いの後、浅野幸長が、紀伊国領し新宮には、一族浅野忠吉入城した忠吉は、新宮城整備着手したが、元和5年(1619)浅野氏安芸国に移ると忠吉移封され、紀伊国には徳川頼宣入国し新宮には頼宣の付家老として水野重仲入った。重仲は、徳川家康母方従兄弟で、頼宣の後見役として3千石領した水野氏は、尾張水戸付家老と同様、待遇大名準じ将軍拝謁をすることができた。以後水野氏は、幕末まで10代にわたり新宮領主として当地支配した
  重仲は、入部後ただちに城の改修工事進め二代重良の時の寛永10年(1633)一応の完成見た正保城絵図である「紀伊国新宮城之図」によると本丸中心に南西に鐘ノ丸、北西ノ丸、西山麓に二ノ丸配されていたことがわかる。城の規模は、本丸地域東西180間、南北115間、二ノ丸東西32間、南北28とされる建物は、天守中心に多数城門所在したことがわかる。しかし、廃藩置県後明治8年には城内全ての建物撤去された。
  城跡は、現在本丸地域中心に丹鶴城公園」として整備進められ、そのための発掘調査が行われてきたが、ノ手郭の調査では大きな成果上がっている。
  この地域からは、雛壇状に区画造成され、隙間なく建てられ19棟の礎石建物群と通路確認された。建物は、長方形台形・L字形など多様平面形をもつものであった。この建物群は郭の地形最大限利用して造られたものであり、床面からは砂利と炭粉が堆積したものが多いこと、建替の際の整地層から多数の炭が出たこと等から炭小屋群と推定された。これらは絵図文献資料等からその存在確認されないが、調査結果宝永4年(1707)の地震後整備より、造られたものと考えられている。この建物群は、炭俵換算する1万俵あまりの収容力のある施設であり、新宮炭の専売行っていた藩が、本来軍事的性格有する場所であったノ手郭を江戸時代安定期経済的性格施設役立てたものと考えられている。
また、城跡の南約1km位置する水野家墓所は、新宮城初代重仲から10代までとその親族墓碑16基が建ち並び良好に保存されており、新宮城整備と藩運営携わった大名家墓所として貴重である。
  このように紀伊家付家老大名として扱われ水野氏城跡としての新宮城跡は、発掘調査結果近世城郭機能としては異質経済的側面の強い遺構確認されたことから、我が国近世大名家の経済的基盤考え上で重要な発見であり、良好に保存されている水野家墓所とともに史跡として指定し保護図ろうとするものである



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「新宮城跡附水野家墓所」の関連用語

1
32% |||||

2
12% |||||

新宮城跡附水野家墓所のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



新宮城跡附水野家墓所のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
文化庁文化庁
Copyright (c) 1997-2024 The Agency for Cultural Affairs, All Rights Reserved.

©2024 GRAS Group, Inc.RSS