文化・文献におけるサクラの歴史
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「サクラ」の記事における「文化・文献におけるサクラの歴史」の解説
「桜に関連する作品一覧」も参照 桜は春の象徴、花の代名詞として和歌、俳句をはじめ文学全般において非常によく使われており、現代でも多くの音楽、文化作品が生み出されている。 古来から桜は穀物の神が宿るとも、稲作神事に関連していたともされ、農業にとり昔から非常に大切なものであった。また、桜の開花は、他の自然現象と並び、農業開始の指標とされた場合もあり、各地に「田植え桜」や「種まき桜」と呼ばれる木がある(あった)。これは桜の場合も多いが、「桜」と名がついていても桜以外の木の場合もある。 奈良時代の『万葉集』には桜を含む様々な植物が登場するが、中国文化の影響が強かった当時は和歌などで単に「花」といえば唐から伝来したばかりの梅を指していた。万葉集においては梅の歌118首に対し桜の歌は44首に過ぎなかった。2019年5月1日からの元号である『令和』も万葉集にある梅花の宴が典拠となっている。 サクラの地位が特別なものとなったのは平安時代であり、国風文化が育つに連れて徐々に桜の人気が高まり「花」と言えば桜を指すようになった。平安時代に編纂された『古今和歌集』の仮名序にある古墳時代の王仁の歌とされる「難波津の咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」の「花」は梅であるが、平安時代の歌人である紀友則の歌「ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花ぞ散るらむ」の「花」は桜である。斎藤正二は、中世の知識階級に手本とされて親しまれた白居易が『白氏文集』の中でサクラに関する詩を27首詠じていることから、日本におけるサクラの格の向上に与えた漢詩の影響について指摘している。嵯峨天皇は桜を愛し、花見を開いたとされている。左近の桜は、元は梅であったとされるが、桜が好きであった仁明天皇が在位期間中に梅が枯れた後に桜に植え替えたとされている。歌人の中でも特に平安時代末期の西行法師が、「花」すなわち桜を愛したことは有名である。彼は吉野の桜を多く歌にしており、特に「願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ」の歌は有名である。西行はこの歌に詠んだ通り、旧暦二月十六日に入寂したとされる。室町時代には、この西行を題材にした能の西行桜が成立した。 安土桃山時代の豊臣秀吉は醍醐寺に700本の桜を植えさせ、慶長3年3月15日(1598年4月20日)に近親の者や諸大名を従えて盛大な花見を催したとされ、これは醍醐の花見として有名である。 江戸時代の代表的俳人・松尾芭蕉は、1688年(貞享5年)春、かつて奉公した頃のことなどを思って「さまざまの事おもひ出す桜哉」と句を詠んだ。俳句では単に「花」といえばサクラのことを指し春の季語であり、秋の月、冬の雪とともに「三大季語(雪月花)」である。「花盛り」「花吹雪」「花散る」「花筏」「花万朶」「花明かり」「花篝」の「花」は桜である。楽においては江戸時代の箏曲や、地歌をはじめとする三味線音楽に多く取り上げられている。一般に「日本古謡」とされる『さくらさくら』は、実は幕末頃に箏の手ほどきとして作られたものである。江戸時代に成立した戯曲の『義経千本桜』では、本来その話の中には桜が登場しないにもかかわらず題名に桜を用いた。 明治時代以降では瀧廉太郎の歌曲『花』などが有名である。長唄『元禄花見踊』も明治以降の作であるがよく知られている。 サクラの開花時期は人口の多くを占める関東以西の平地では3月下旬から4月半ば頃が多く、日本の年度が4月始まりであることや、学校に多くの場合サクラが植えられていることから、現代では人生の転機を彩る花にもなっている。 令和でもサクラはポピュラー音楽、映画、ドラマ、ゲーム、アニメなど様々な作品のモチーフや題材になっている。特に春に発表されるポピュラー音楽では他に比べて桜を扱ったものが多く、これらの歌は桜ソングとして知られている。
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