散文詩集『ムーラン・プルミエ』- 断章形式、アフォリズムへ
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「ルネ・シャール」の記事における「散文詩集『ムーラン・プルミエ』- 断章形式、アフォリズムへ」の解説
1934年に、これまで雑誌に掲載された詩をまとめた『主のない槌』を発表した。カンディンスキーの版画(ドライポイント)が掲載された本書は、シュルレアリスム出版社から刊行された4冊目にして最後の詩集である(なお、1926年に創設された同社は1968年まで存続した)。シャールはこの後、1932年に結婚した妻ジョルジェット・ゴルドスタンとともに家業の左官屋を再建するために故郷のリル=シュル=ラ=ソルグに戻ったが敗血症を患い、以後しばらく同地で療養することになった。 1936年に断章形式と呼ばれる簡潔な短い文章による散文詩を集めた『ムーラン・プルミエ』を発表した(これ以後の詩集は、主にギィ・レヴィ・マノ(フランス語版) (G.L.M) 社またはガリマール社から刊行されている)。「ムーラン・プルミエ(一番目の水車)」とは、故郷リル=シュル=ラ=ソルグのソルグ川にあった実在の水車で、詩集には手書きの詩が添えられた12枚のリルの絵葉書が掲載されている。「断章」は、『イプノスの綴り』、『図書館は燃え上がっている』、最後の詩集『疑われる女への讃辞』まで繰り返し用いられる、シャールにとって重要な表現形式である。『ムーラン・プルミエ』は上述のファシズム批判の表明であり、とりわけ、1938年刊行の『外で夜は支配されている』以後にも「怪物」として頻出するファシズムを激しい言葉で批判している。その対象は、ファシズムだけでなく、その台頭を許している支配者の「愚鈍さ」であり、体制順応主義である。これは詩人シャールにとってシュルレアリスムの現状にも通じる「詩の危機」、すなわち、「成長を止めた」詩の停滞を打破しようとする試みでもある。そして逆に、そのために採られた形式が「断章」であり、影響として、シャールが愛読したギリシャの哲学者ヘラクレイトスからニーチェ、さらにはボードレールの『火箭』まで、その厭世観や辛辣な批判が同じように断章やアフォリズムで表現されていることが指摘される。 シャールが最初に詩集を送り、ともにシュルレアリスムの運動に参加したエリュアールは、1933年に共産党を離党し、革命作家芸術家協会を脱会したが、1934年にスペイン内戦が勃発すると共和派(人民戦線政府)を支持し、再び共産党に入党した。したがって、共産党を支持することなく、シュルレアリスムからも離れたシャールとは政治的にも文学的にも異なる道を歩んでいたが、これは二人の友情に影響するものではなく、エリュアールは当時シャールが療養のために滞在していた(リル=シュル=ラ=ソルグから200キロほどのところにある)ル・カネを訪れ、共同で詩を制作している。また、この後、第二次大戦中にはそれぞれに対独抵抗運動を展開することになる。 一方、この頃、シャールはキアロスクーロの画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの絵に出会っている。とりわけマグダラのマリアを描いた一連の絵画に着想を得て書いた詩「常夜灯のマグダラのマリア」と散文作品「眠れぬ夜を過ごすマドレーヌ(マグダラのマリア)」(詩の発表は戦後)における女性像は、謎の女性、束の間姿を見せて消えてしまう「不在」の女性として1930年から31年にかけて詩に登場するアルティーヌやローラ・アバの系譜に連なるものである。 なお、ヴァレンティーヌ・ユーゴー(フランス語版)の挿絵(ドライポイント)入りの詩集『回り道のためのびら』は、スペイン内戦勃発時に書き始められ、「スペインの子どもたち」に捧げられたものだが、第二次大戦勃発により発表は戦後に延期された。
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