教育者、思想家評論家時代とは? わかりやすく解説

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教育者、思想家評論家時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 02:11 UTC 版)

北昤吉」の記事における「教育者、思想家評論家時代」の解説

1913年大正2年早稲田大学講師となる。またこのころより大正デモクラシー旗手として論壇登場し民本主義学問的根拠政治学あり方めぐって吉野作造論争する1917年大正6年)ごろ、霊感の強い兄一輝知り合いで、催眠術者の古屋鉄石試験台をしていた永福という行者知り自宅招いて中村古峡柳田国男、中太郎紀淑雄らと催眠術研究をした。 三土忠造支援で、1918年大正7年9月より、4年近く欧米留学した米国ハーバード大学1年学んだのち、英国フランススイスイタリア経て1920年大正9年春にドイツ入りベルリン学び1921年より1年7か月ハイデルベルク暮らした1922年大正11年12月末に帰国1923年大正12年帰朝以来大東文化学院現在の大東文化大学教授大東文化協会第二研究主任日本 (新聞)編輯監督大正大学講師歴職。 在英ユダヤ人政治学者ハロルド・ラスキ友人になった帰国直後には兄の北一輝ソ連外交官ユダヤ人ヨッフェ批判していた旨を後に回顧している。また、改造読売新聞東京日々新聞などに論文寄稿した。兄の一輝とは1925年大正14年)を最後に逮捕後に面会するまで十年以上没交渉となった1923年12月27日虎の門事件天皇暗殺未遂)の翌日弁護士小川平吉警視総監斎藤樹義父)が発起し青天会に参加し、また小川と共に日本新聞主宰した。青天会と日本新聞とは不離の関係にあり、会員重なる者は本人のほか、井上哲次郎五百木良三、阪東宣雄、花井卓蔵蜷川新本多熊太郎頭山満大木遠吉大島健一東条英機若槻礼次郎鎌田栄吉原嘉道永田鉄山荒木貞夫永田秀次郎筧克彦川島卓吉、上杉慎吉近衛文麿北里柴三郎金杉英五郎江木千之平沼騏一郎星野錫長崎英造鈴木梅四郎若宮卯之助綾川武治国本社)、中谷武世下位春吉であった。北はその他に愛国勤労党など様々な愛国的団体参加した1928年昭和3年)、総合評論雑誌祖国」を創刊、自ら主幹となり評論活動に入る。この雑誌は本来左右問わない言論発表の場であったが、後に「祖国同志)会」の機関紙へと性質変える1929年昭和4年早稲田大学時代教え子であった金原省吾らに請われ帝国美術学校現在の武蔵野美術大学)の創立者初代校長となるが、1935年昭和10年学校運営移転問題めぐって学生対立し学生ストライキ事件同盟休校事件)を期に学校分裂する。(帝国美術学校多摩帝国美術学校多摩帝国美術学校現在の多摩美術大学)を創設多摩帝国美術学校名誉校長つとめた

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