戦後の人気
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 04:50 UTC 版)
1952年に日本が主権を回復すると、毛利小平太ら脱落者を描いた『元禄水滸伝』を皮切りに、1952年だけで7本もの忠臣蔵映画が作られている。 この頃の忠臣蔵映画は、まだGHQに対する遠慮があったのか、どれもアンチ仇討ち、アンチ忠臣蔵というスタンスで描かれていたが、1954年の『赤穗義士』(大映)と同年の『忠臣藏(花の巻・雪の巻)』(松竹)から戦後忠臣蔵映画の黄金期に突入し、その後1962年まで、毎年数本もの忠臣蔵映画が作られ続けている。当時の忠臣蔵映画は、自社の巨匠監督を使って豪華な俳優をオールスターで使った大作が多く、いわば俳優の顔見せ的な役割を担っていた。 一方小説は1950年の榊原潤の『生きていた吉良上野介』を皮切りに、村上元三の『新本忠臣蔵』(1951年)、大佛次郎の『四十八人目の男』など友情や恋、自立などを描いた忠臣蔵ものが発表され、その後も舟橋聖一の『新・忠臣蔵』(1956年~)、山田風太郎の『妖説忠臣蔵』(1957年)、五味康祐の外伝物『薄桜記』(1959年)、尾崎士郎の『吉良の男』(1961年)など続々と忠臣蔵ものが書かれている。風太郎には上杉家の能登忍者たちが大野・田中・奥野・小山・進藤と赤穂義士を一人ずつ倒していく『忍法忠臣蔵』や義央が生き残る『生きている上野介』など、一連の反忠臣蔵ものがあり映像化もされている。 東京オリンピックの年である1964年になるとNHK大河ドラマ『赤穂浪士』(ただし、原作や映画化での主人公は吉良・上杉方の堀田隼人と千坂兵部。大河では大石内蔵助を主役に換えている)が最高視聴率53.0%に達するなど国民的にヒットし、忠臣蔵の主力が映画からテレビへと移る。その後年末になると毎年のようにテレビで忠臣蔵ものの新作の放映もしくは再放送が行われるようになった。1971年にはドナルド・キーンが忠臣蔵を『Chushingura:The Treasury of Loyal Retainers, a Puppet Play』として翻訳した。 1980年代になると再び忠臣蔵の関心が高まり、1982年にはNHK大河ドラマ『峠の群像』が作られ、また森村誠一が浪士達の人間的な側面を強調した『忠臣蔵』を描き、ブームの一翼を担った。井上ひさしや小林信彦もそれぞれ脱落者を描いた『不忠臣蔵』、赤穂事件の不条理な面を浮き彫りにした『裏表忠臣蔵』を書いている。八木康夫のビートたけしを主役に据えたシリーズの一つにTBS『忠臣蔵』もある。 同時期に丸谷才一の『忠臣蔵とは何か』で忠臣蔵を御霊信仰と結び付けた論考に端を発するいわゆる「忠臣蔵論争」が起り、諏訪春雄が『忠臣蔵の世界』、『聖と俗のドラマツルギー』で丸谷の説に反論するなどした。
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