戦後の二眼レフブーム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/08 15:03 UTC 版)
「二眼レフカメラ」の記事における「戦後の二眼レフブーム」の解説
太平洋戦争後の日本においては、ボディを板金で作りベルトコンベアを導入して大量生産を実行し6,800円という低価格を実現したリコーフレックスIIIが1950年に発売された。当時の30歳代サラリーマンの月給から現在の価値に換算すれば約25,000円程度の金額であるが、当時ローライフレックスをはじめ、まともなカメラが軒並み30,000円以上の販売価格だったことに鑑みると驚異的な価格破壊と言える。あまりの人気にプレミアム価格で取引され、定価販売するリコー系列の銀座三愛前には行列ができる程であった。これが発端となって二眼レフカメラの大ブームが起きた。 製造者側にとっても構造が単純で簡単に組み立て可能、しかも型落ちの大手メーカー製ボディーやリコーが大量製造したレンズ、あちこちのメーカーで濫造されていた各種シャッターなどが手軽に手に入ったため、いわゆる「四畳半メーカー」と呼ばれる零細メーカーが乱立し、一時は「カメラ名のイニシャルがAからZまで揃っていた」と言われた程である。大手製品と酷似しているのにメーカー不明なカメラが多く現存することからもそれが窺える。ちなみにAはアイレス写真機製作所のアイレスフレックス、Zは第一光学のゼノビアフレックスが知られる。またJ、U、Xが頭文字のカメラは知られていない。 日本のカメラメーカーで二眼レフカメラを販売しなかったのは日本光学工業(現ニコン)、キヤノン、旭光学工業(現ペンタックス)、ミランダカメラ等少数である。このうち日本光学工業は1946年(昭和21年)4月に後にニコン Iとなる距離計連動カメラとともに二眼レフカメラを製造することを予定していたが、二眼レフカメラの方は適当なシャッターを入手できず、新たにシャッターを設計して小林精機(現日本電産コパル)に製造委託したが、これにより開発は大きく遅れて最終的に二眼レフカメラの開発は中止となり、発売に至らなかった。余ったシャッターはオリンパスが引き取った。 このメーカー乱立時代を終わらせたのはヤシカが1954年(昭和29年)に発売したヤシカフレックスで、二眼レフカメラの人気が下火になりかけたところに10,000円を切る価格で投入されたため、結果として二眼レフカメラを見限るメーカーが続出した。 結論としては、135フィルムを使う小型カメラがハイエンドからローエンドまで広がったことで、「高性能な中判カメラ」の地位はハッセルブラッドに代表される中判一眼レフに集中し、安価で手軽なカメラの地位は35mmフィルムからの引き伸ばしが一般化したこともあり小型カメラで要求が満たされるようになって、中判二眼レフのブームは終わりニッチ的な存在となった。
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