成立過程と上演禁止騒動
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「タルチュフ」の記事における「成立過程と上演禁止騒動」の解説
1664年5月7日から13日にかけて、ルイ14世は、母后アンヌ・ドートリッシュならびに王妃マリー・テレーズ・ドートリッシュのためと称して、実は愛妾ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールのために、ヴェルサイユ宮殿にて600人を超える貴族たちを集めて「魔法の島の楽しみ」なる祝祭を催した。 モリエールとその劇団もこの祝祭に呼ばれ、2日目に『エリード姫』を、5日目に『はた迷惑な人たち』を、6日目に本作を上演し、最終日に『強制結婚』を上演した。上演された演目は『はた迷惑な人たち』にせよ『強制結婚』にせよ、旧作のコメディ・バレであって、宮廷で演じる作品としては無難な選択であった。本作について、この催しの公式記録は以下のように記している: この夜、陛下はモリエール氏が偽善者どもを俎上にして書いた喜劇『タルチュフ』を上演するよう計らわれた。劇は大変面白かったが、真の信仰によって天国への道を歩む人々と、下らぬ見栄から善行を誇示するくせに悪しき行為をも行う輩との間には、たくさんの類似点があることをご承知でおられた国王陛下は、宗教問題についての細やかなご配慮から、このように悪徳と美徳が似通って見せられるのを是とはされなかった。この両者は、互いに取り違えられかねないし、作者の善意を疑うものではないにせよ、陛下はこの劇の公開を禁じられた。そして、ほかの判断力の乏しい人々がこの劇を悪用せぬよう、ご自身もこの劇をご覧になるのをお控えになったのである。 この作品の上演を妨害しようとする動きは、上演前から行われていた。とくに『女房学校』以来、モリエールの作品に反宗教的要素を見出して、彼の監視を続けていた聖体秘蹟協会の面々は、水面下で激しい妨害工作に勤しんでいたが、結局本作は「魔法の島の楽しみ」においては問題なく上演された。ただ、上の記述に見えるように、即日国王によって上演が禁じられた。 国王夫妻は上演を興味深そうにご覧になったとのことだが、年老いて信心深くなっていた、ルイ14世の母親アンヌ・ドートリッシュなどはその諷刺に眉をひそめたという。モリエールの親友であったボワローによれば、 モリエールは『タルチュフ』を書くと、その最初の三幕を国王陛下に朗読して見せた、この芝居をお気に召された陛下がたいそうお褒めになったために、却ってモリエールの敵方、とりわけ信心家の集団の妬みを誘ってしまった。パリの大司教ペレフィックスは信者たちを代表して、陛下に謁見を求め、タルチュフの上映禁止を懇請した。この請願が何度も繰り返されるので、陛下はモリエールを呼び出し、「彼らを刺激してはならない」と仰った。… とのことである。 ペレフィックスは国王と関係の深い司教であったので、ルイ14世もその請願を無視しきれなかった。しかし、上演が禁止されたのはあくまで公の席のみでのことであって、私的な上演については何の罰則もなかったため、作品の観賞は続けられた。そのうち彼を攻撃していたジェズイットやジャンセニストの中からも好奇心から芝居を鑑賞したがる者が続出した。完全な形で、つまり全5幕の形で初演が行われたのはこの頃のことであった(1664年11月29日)。コンデ大公の館で上演されたという。先述したように、私的な上演には罰則がなかったからである。 モリエールの『タルチュフ』序文では、この上映禁止騒動を次のように説明している: …この喜劇が禁止されて1週間後に、宮中で「隠者の道化師」と題する作品が上演された。国王は席をお立ちになりながら、コンデ公に向かって「モリエールの喜劇に対してあれほど騒ぎ立てる連中が、この喜劇について一言も言わないのは一体どういうことだ?」と仰った。公はそれに答えて「この喜劇はあの連中が気にもかけない天とキリスト教とを愚弄しているのに対して、モリエールの喜劇は彼ら自身を愚弄しているのです。それは彼らにとっては耐えられないことであるからです。」と申された… 1666年、国王から本作の上演に関してある程度の承諾を得た。以前国王に注意を受けたように刺激的な部分を削除し、1667年8月5日、『ペテン師』と改題して上演するも、高等法院によって翌日、再び上映禁止となった。高等法院に請願を繰り返すが相手にもされなかったため、最後の手段として戦争でフランス国内にいなかった国王へ請願書を書いて届けさせるも、上映解禁の命は結局下りなかった。同年8月11日、パリの大司教ペレフィックスにより、「タルチュフ」の公的、私的を問わず一切の上演を禁じ、違反者には破門を宣告する旨の通告が発せられた。 1669年2月5日になって、ようやく上映禁止の禁令が解除された。これまで上演に猛反発していたキリスト教の狂信者たちの力が封じられたためである。即日上演され、大反響を呼んだ。 18世紀にヨーロッパで盛んになった町民劇の先駆的存在とも言える。町民劇では、観客と同時代に生きる紳士淑女を突然襲う不幸をテーマに、主人公の悲劇に観客は涙し、共感を覚え、魂は浄化されて美徳を愛するであろうという主張が貫かれる。本作品の場合、オルゴンは自分の愚かさによって不幸がその身に降りかかるが、彼の家族は全く違う。彼らはタルチュフの正体を看破しているにもかかわらず、オルゴンの狂信のせいで、さまざまな不幸に襲われる。それどころか財産の全額贈与などという愚行によって、一家の主として家族を慈しまねばならないオルゴンに裏切られたショックは大きい。まさにこれは、町民劇の世界そのものである。
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