憲法と軍隊
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日本国憲法と軍隊の在り方を巡る言動は、時代状況によりいくつかの変遷がある。 1946年(昭和21年)3月に「憲法改正草案を評す」で、日本国憲法に関しては憲法九条に該当する草案第二章の戦争放棄を「最早日本は敗戦国でも、四等、五等でもなく、栄誉に輝く世界平和の一等国、予ねて日本に於て唱えられた真実の神国に転ずるものである。之れに勝った痛快事があろうか」と評価した。 だが1950年(昭和25年)頃からは、自衛軍設置の主張や共産・社会主義との対決姿勢(後に自ら廃稿した「第三次世界大戦と世界国家」)を鮮明にし、政治家としても「反吉田」路線に立ち、憲法改正・再軍備論者として活動した。同時期には「破局的な第三次世界大戦がいやだというなら、そこ(各国の軍備全廃)まで行かなきゃダメだ」と駄目を押し「その場合は国を亡ぼしてもいいという覚悟をしなければとてもできない」(1952東洋経済新報「問われるままに」)と現実と理想のギャップを示しながら、熟慮・覚悟の伴わない理想論を戒めている。一方で私的に記した日記の中でも、1950年の記述で「今日の世界に於て無軍備を誇るのは、病気に満ちた社会に於て医薬を排斥する或種の迷信」と非武装中立の主張を公的な発言以上に辛辣に評してもいる。 1953年の総選挙では、鳩山自由党の政策委員長として政策をまとめて「憲法を国情に適するように改正」「戦争否定の精神は国策として存置するが、戦争発生防止のため自衛軍を組織する」などを明記した。これは後年の「国としての軍備を持たず国際紛争を武力をもって解決していくのではないと、世界に宣言したことは…人類最高の宣言であると信じている。これが少し時勢に早かったというのであれば、修正の箇所だけあとに加える…『九条は現代の世代において論理通りにいかぬので、世界の国々が恒久平和の理想に燃え、同一精神、同一歩調のとれるまで、しばらく停止する』という具合」という主張(1966「中小企業」)にも合致する。 1957年(昭和32年)、首相に就任した年の新春特大号の『東洋経済』「石橋湛山大いに語る」では「国連に対して義務を負うということは、軍備ということも考えられる」とし、同時期の「プレスクラブ演説草稿」では「世界の実情から判断して、国の独立安全を保つのに必要な最小限の防衛力はこれを備える国際義務を日本国民は負うものであると信じます」としている。ただし同稿の中で「人類を救わんとするならば、われわれは軍備拡充競争を停止し、戦争を絶滅しなければなりません」と、冷戦の平和解決と軍縮を主張した。 米ソ日中平和同盟を提唱してからは将来の理想を語りながらではあるが、再び平和憲法の意義を強調(「池田外交路線へ望む」)しながら、各国の軍備でなく国際警察軍によって平和を守る「世界連邦」実現への努力を説いている(「日本防衛論」)。 石橋は後年「私の戦争反対論には、理屈の外に、実はこの(軍隊時代の)実弾演習の実感が強く影響していたと思う」「もし世の人が皆戦争をさように身近に考えたら、軽率な戦争論は跡を絶つに違いない」(「湛山回想」)と振り返っている。戦争を嫌悪した湛山だが、彼にとっての軍隊体験は、平和についての思索や公共生活の訓練として実のあるものだったようである。 憲法は国民に義務を負わせるべきか、という議論に関しては、専制独裁に対抗するために主権を抑えようとした「十九世紀の憲法」からの脱却を説き、民主主義国においては国民が権利を持つ以上は義務を自覚しなければいけないと主張した。「義務の規定に周密でない憲法は、真に民主的なものとはいえない」と憲法における義務規定の充実を望んだ。
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